後輩「また死にたくなりましたか?」【後半】
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◇
館内に戻り、お昼時を過ぎだいぶ人の少なくなったフードコートで昼食を済ませることにした。
水族館ということもあって、やはり海産物が多く、人気のメニューは海鮮丼やら刺身を使った定食らしい。
別にこれといって食べたかったものも無かったし、道中でなぎさからお菓子をいろいろ貰ったからお腹がすいているというわけでもない。
思いつかないし適当に合わせるか、と先に買うことを勧めると、彼女は焼きそば、ハンバーグ、サラダやらが乗ったプレート料理にしたようだった。
二日連続はどうなのかと一瞬考えたが、夜と被る可能性もあるし、彼女に続いてそれを注文した。
テラスに出て、運ばれてきた料理を食べる。
近くでは木々の葉鳴りが、少し上からはアシカショーの歓声が聴こえる。
「時間合うかわからないけど、これ食べたら行ってみるか?」
「ええ……と。どうしましょうか」
一応この水族館の目玉であるし、行きたいというなら、と思っていたが、彼女の反応的にどっちでもいいらしい。
まだ一階部分しか周っていないし、お昼過ぎからは上演回数がそう多くもないだろう。
「それ見せて、いつやるか書いてあると思うし」
「あ、はい。どうぞ」
なぎさからパンフレットを受け取って上演時間を確認すると、次の上演は九十分後だった。
なんていうか、思ってた通り微妙な時間だ。
「そうだな……。他のところ周って、時間がちょうど良かったら行くか」
「そうですね、それでいいですよ」
うん、と軽く頷きを返すと、彼女はそのままパンフレットを広げて、どこに行くか決めましょう、と声高に言った。
さっきまで見て周っていたところは、名前の通り、ここらの地域や日本近海の魚を集めていた。
それに対して二階の展示は『世界のうみ』と銘打っており、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパなど、世界の地域ごとに観ることができるらしい。
その他にも、一階部分よろしく屋外展示もあり、多くの人はそこに行くようだった。
二人でいるといつも予定を決めることもなくふらーっと行動していたからか、何かを決めてから行動するのは少し新鮮に思える。
料理を食べ終えた後、フードコートに隣接されているお土産ショップに行くことにした。
そういえば姉にお土産を頼まれていたと思い、スマートフォンを取り出すと、さっき送った写真に返信が来ていた。
『かわいいね』
『デート楽しんでる?』
『スタンプ(ニヤニヤした顔の)』
デート云々はスルーすることして、姉が好きそうな食べ物やぬいぐるみなんかの写真を撮って、この中で欲しいものある? と送ることにした。
「何してるんですか?」
突然何も言わず写真をぱしゃぱしゃ撮り出した俺になぎさは訝しげな視線を向ける。
「あれだ、あっちで待ってくれている愛する姉に買って行ってあげようって思って」
「おお、そうなんですか。じゃあ私も杏に買いましょうかね?」
「いいな、喜ぶと思うぞ」
「さっき私と杏のこと言ってましたけど、はるくんと楓さんも一歳差とは思えないほど仲良いですよね」
「……んー、普通じゃねぇの?」
「えー……普通じゃないですよー。
なんですかね、お互いがお互いを信頼してるって感じが出てるって思いますよ」
「そうか……」
信頼。
……信頼、か。
なぎさの目にはそう映ったらしいが、実際のところどうなのだろうか。
千咲にも似たようなことを言われたけれど、本当に最近まで──この夏まで、大して喋るわけでも無かったと思う。
だからなのかは定かではないが、最近の姉と過ごす時間はそれまでよりも濃いように感じる。
どれが普通かなんてわからないと思ったが、裏を返せば、どれが普通でないのかも全くわからない。
手元を見ると、既に姉からの返信が来ていて、左端にあるカメのぬいぐるみを買ってこい、と。
御達しの通りぬいぐるみコーナーに戻ると、なぎさも俺について来て、近くのぬいぐるみを物色しだした。
手にはどこででも買えそうな箱入りの饅頭が握られている。
どうやら、俺が考えているうちに買うものは決めていたらしい。
「カメ、ですか」
「これがいいんだと」
「これまた随分とリアルなやつですね」
「まあな。でもなんかよく見るとかわいいところあるじゃん」
ほい、と目の前にカメを差し出すと、なぎさは顔を近付けてまじまじとそれを見た。
「……なんていうか、メロンパンみたいですね」
そう言ってくすりと笑う。
「お腹もう空いたの? それとも足りなかった?」
「いいえ、お腹いっぱいですよ」
「……」
……普通に返してくるか。
戸惑っていると、もう一度くすりと笑いかけられた。
そのまま、そうですね……、と彼女は話し始めた。
「……私たちって、いつも電車に乗るじゃないですか」
「えっと……通学の時とかか?」
「そうですそうです。
……で、学校のほうの駅前にメロンパンの移動販売が来てたりするじゃないですか」
「うん……そんで?」
「いつも食べたいなあって思ってて……」
「あー、遠目でしか見たことないけどたしかに美味しそうだな」
「ですよね! 店名がちょっと謎ですけど、クラスの子とか並んでるのよく見ますし」
にこにこしている。
同時に、何か期待するような、そんな目で見つめられた。多分。
思わず首をかしげる。
これは、そういうことなのか……?
いや……でも、俺の思い過ごしってことだってある。
その場でどうにか取り繕おうとも考えた。
でも、ちょっと考えてすぐにやめることにした。
再び目を合わせると、緊張したような空気が流れる。
……しばしの沈黙。
その後、彼女の視線がすーっと棚の方へとスライドした。
「さっきの話ですけど、これ欲しいです」
さっきの話、さっきの話……。
行きたいから誘ってくれ、という意思表示をしていたわけでは無かったのか。
胸の前にエイのぬいぐるみを押し付けられる。
随分とデフォルメされたやつだこと、若干かわいい。
「あ、うん。それ買って欲しいと」
「え、えっと……。あの、お昼前のバスで何かプレゼントくれるって」
そうだ、言ったわ。
名前呼びとは別にってことね。
「言ったな」
「おお、良かったです。この歳でボケちゃったのかと思いました」
「ボケてるって……」
「それで、はるくんにはこのサメをプレゼントいたします!」
反対側の棚からビーズの入ったシュモクザメのぬいぐるみを取り出す。
「プレゼント交換ってことか?」
「それです。誕生日近いですし、お互い記憶に残るものがいいな、と」
「いや、貰えるなら嬉しいけど、別に俺は……」
「いいんですよ、貰っといてください。
それにあれですね、次に泊まりに行ったときに私が使いますから」
「え、なに。またうちに来るの?」
「楓さんと千咲先輩に誘われましたよ?」
「……俺、何も聞いてねぇよ……」
「……まあ、杏が行きたいって楓さんに言ってたんですけどね」
「それなら良いな。杏が来たいなら仕方ない」
「どんだけ杏のこと好きなんですか。
いくら私でもちょっと引きますよ……」
半分くらいネタのつもりだったが。
それに、そんな呆れたような目で見られても。
いろいろと困るんだよ、俺だって普通に男だし。
俺以外は全員女子、その日確実にコウタのことを誘わなくては。吉野さんも来るだろうし誘えば乗ってくるだろ。
「じゃあ、レジ行くか」
「は、はい。あの、これでいいんですよね?」
「うん、ありがとな」
落ち着いて考えてみると、うちに泊まるからと言っても、また俺の部屋に寝るわけじゃないだろ。
寝たいって言うならそれはそれで……ないか。ないわな、流石に。
◇
「じゃあ、右回りで行きますか」
「そうだな、行くか」
二階へと続くエスカレーターは進むにつれてどんどん明るさを増して行った。
一階、フードコートよりも人の数が格段に多く、ショー帰りの客とすれ違う。
地域の海よりも断然人気があるというのは大丈夫なのか、
なんて思ったけれど、近くを見るより遠くを見るほうがいいのかなと適当に納得することにした。
最初の地域は『オセアニア』で、グレートバリアリーフの魚たちを集めているらしい。
少し進んで横にはペンギンコーナー。
つくりは岩場とプールで、小さめのペンギンが、よちよちと歩くか、すいすいと泳ぐかしている。
ペンギンともなると当然目立つし人気もあり、右回りの人も左回りの人も、ほぼ全員がそこで足を止めている。
「かわいいですね、フェアリーペンギン? ですよね」
「そうみたいだな。……人多すぎないか、ここ」
「……そう、ですね。あっち空いてますから行きましょうか」
円を囲む展示台の裏側。
プールから陸地、岩場になっているところは人気が少なくなっていた。
だいたいの写真を撮っている人たちは、ペンギンの泳いでいる姿を収めているらしい。
いくつかある二人がけの椅子は若いカップルで埋まっていて、手すりにもたれかかった。
なぎさはなぎさで岩場を歩くペンギンをぱしゃりと撮り出したので、俺もそれに続いてスマートフォンで撮った。
何枚か撮って、すぐ横を見ると、いい構図のものが撮れたのか隣にいる彼女はつやつやした嬉しそうな顔になっていた。
そんな様子を見るとなんだか気恥ずかしくなってきて、展示をぼんやりと見つめることにした。
……ぼんやりと、と言っても全体を見るというよりは、一点を視線をずらしながら見ていくような、そんなふうに。
周りを見ると、それは俺だけではないのだろう。
そこにいた人たちの多くは、寄り添う二羽のペンギンに目を止めていた。
ああいうのは一目で分かる。昔、結構有名な『皇帝ペンギン』という映画で見た記憶がある。
イメージがひとり歩きしているだけなのかもしれないが、しばしばペンギンの夫婦は一夫一妻制のロールモデルかのように扱われている。
ペンギンの夫婦を見て考えることは皆同じようで、少し後ろにいる俺らと同世代くらいのカップルの女の方が、
「ペンギンは一度夫婦になると一生添い遂げるんだよね」「それってすっごく理想的じゃない?」
と小声で呟いた。
隣に座る男もそれに同調し、より一層やさしげな目で彼女に向かって笑みを浮かべた。
他の人も同じく、型にはまったような話をして、ゆったりとした甘い空気を漂わす。
俺も俺で、隣にはかわいい女の子がいて。
……でも、そういう雰囲気にあてられることなんてなかった。
べつに、重ねようとしたわけじゃない。
うちとは大違いだな、なんて思っていたわけじゃない。
ただ、一瞬だけ。ほんの僅かだけ。
また、それを怖いと思ってしまった。
異様だ。けれど、行き着く先は同じだと言い切れない。
愛や恋なんてものは多種多様であって。
今の時代片親も何も珍しくないし、不倫浮気もこぞってメディアに取り上げられるくらいだ。
そういうのを見るたびに、聞くたびに、まあ実際はそんなもんだろ、と達観した風にして逃げてきた。
自分は、自分たちは特殊じゃないと思いたかった。
俺が何かを考えていたって意味は全くない。誰の慰めにもならない。
ひと息つこうとした。それで気が晴れるとは微塵にも思っていなかったが、何かをせずにはいられなかった。
でも、そうはしなかった。
なんとなく、今はまだそれを飲み下すときではないと感じたから。
そして次に、やめようか、と考えた。
思考はループする。だんだんと悪い方に傾いていく。
読んで字の如く、悪循環だ。
どうすりゃいいんだよ、と思う気持ちすら失せ始めてきた。
ぐるぐると渦巻く感情に対処できずにいると、ふいに横から「ごめんなさい」と小さい声がした。
肩のあたりを強めに叩かれて、我に返る。
「あの……どうしましたか?」
目を開けると、心配そうになぎさが俺を見ていた。
すぐに慌ててしまう。
……またやってしまった。
「なんでもない。ちょっと……考えごとしてた」
「……そうですか」
それに頷くと、
彼女は、んー、と顎に手を当てて考え込むように首をかしげた。
「ほんとうに大丈夫ですか?」
「……うん。なんでもないよ」
もっと答えようはあったかもしれない。
例えば、寝不足でちょっと、とか(それはそれで失礼極まりないのだが)。
言葉を続けるべきなんじゃないかと思って口に出そうとしたとき、彼女の表情が僅かながらも曇った。
何か言いたげな顔。
もしかしてですけど、とおどおどしたような様子で俺に言いかけて、彼女の口は止まった。
その、もしかしての続きは……。
……さすがにないだろう、と思いつつも、それ以外に彼女が口籠ることなんてあるのか? とも思う。
直接自分からそれに言及したという心当たりは……ない。
が、付き合いは思ったよりも長くて、関わっているうちに知られていてもおかしいとは思わない。
肌寒い館内なのに、背中には冷や汗を感じる。
どうにもいかなくなって、やっぱり何も言えなくて、
けれど、彼女に急に頬に触れられて、身体が後ろに仰け反った。
「な、なに?」
言うと、すぐに手を離された。
かと思ったら、今度は左手を握られた。
「さっきからずっとぼーっとしてたので、どこか具合が悪いのかな、と思いまして」
ちがいましたか? という付け加えと共に、手を離された。
あ、と一瞬気分が沈んだ。
表情に出して悟られるのは子供みたいだから、それは我慢した。
今更ながら、今日はつくづくダメな日みたいだ。
すべてが空回りしているような。
「うん、うん……ごめん」
「……いえ、謝らなくていいんですよ。
ここ寒いですし、はるくん薄着ですし」
「なぎさは……」
「なんですか?」
俺のことを気遣っての知らないふりか、それとも本当にそう思っているのか。
普段ならわかりやすいはずの彼女の意図が、なぜか読めない。
それが判決の先延ばしのように思えて、どういうわけかもどかしい。
「なんでもない」
「そうですか」
「続き行こっか。体調はもう大丈夫」
ぽん、と彼女の頭に手を置いてみる。
不自然なほどのスムーズさに、俺自身も驚いた。
「……珍しいですね」
「そう?」
えぇ……、と少し拗ねたような口調で返される。
「……逆に珍しくないとすれば、日常的に人の頭を撫でていることになると思いますけど」
「……」
……そうなるか。
「ま、それについてはお互い様ですかね、許します」
「……どういうこと?」
「さあ、どういうことでしょうかね?」
そう言って、くすくす笑う。
そして、でも、お互い様ということは認められたみたいで嬉しいですね、と彼女は続けた。
会話の流れからズレたような物言いに、なんの話をしてたんだっけ、と思った。
◇
各地域のコーナーを比較的ゆっくりと進み、ゴール地点まで辿り着いた。
感想はそこそこ、それなりに疲れた。
ショーには行かなかった。
時間も気にして、というよりは、最終公演で混雑すると予想してやめることにした(実際的中した)。
途中、電話がきた。
当初の予定よりも帰りの時間が早くなったことと、迎えには誰か他の人に頼むことを手短に言われた。
「もう一周しますか?」「いや、遠慮しとこうかな」というある種形式ばったようなやりとりを交わして、水族館の外に出た。
気温は昼間と比べるとだいぶ落ち着いていて、あまり苦ではない。
付設の臨海公園のベンチに座って、迎えが来るのを待つことにした。
「これ、どうぞ」
「おう、さんきゅー」
カフェスペースで買ってきてもらった飲み物を受け取った。
商業施設にあるカフェはコーヒー一杯でも値が張るのが嫌なところだ。
スタバとかタリーズとか、あるのは助かるけれど、注文するとき妙に緊張するし……。
家の近くのカフェは一杯150円でおかわり何回でも無料。すごく良心的。
店主に名前を覚えられてるくらい常連。でも最近は全く通っていない。
渡された飲み物に口をつける。
「これ何円だった?」
「えっと、350円です」
「うい」
予想していたよりも高いわけではなかった。
お金だけ先に渡しとけば良かったな。
「……そういえばさ」
「……なんですか?」
訊きたかったのは少し前の続き。
その場では流したが、気になるものは気になる。
不必要な、というと言い方が悪いか。
それが彼女に迷惑をかけるレベルのことなら、今のうちに正しておくのが筋のように思える。
「さっきのことでさ」
「はい。さっきの? ……と言いますと?」
訊きたいという気持ちが先立って俺から言い出したものの、
こうしてまっすぐ見つめられると、やはり続きを口にするべきかどうか躊躇した。
考えてみると、彼女の提案、要求は楽しむことだったはずだ。
"俺が"もやもやしていることに変わりはない。
でも、この件についてはあの場で終わったことだ。
何かしら遺恨が残ってしまったとしても、今それを蒸し返すのでは彼女の気遣いを反故にするのではないか。
彼女が察しているという仮定で進めてもこの状態であるから、
察していない(ただ俺の様子を変に思っただけであるとか)なら、勝手に俺が要領を得ないような話を始めるということになる。
もっと考えてから行動しろよ。
最近になって何度もそう思った気がする。
だとしたら、それは今まで押し込めていたものなのかもしれない。
ちょっと人と近付くと、一旦立ち止まって、ということが疎かになる。
……駄目だな。
「……どのコーナーが一番楽しかった?」
「えっ……と、二階のですか?」
彼女は一瞬戸惑ったように見えた。
それも俺の勘違いかもしれないけれど。
「うん、そう」
「どうですかね……。どれも楽しかったですけど、強いて言うならアフリカコーナーです」
「あー……。水族館なのに魚いなかったな」
「そうですね。爬虫類とか両生類とかばかりでしたね」
「カメレオンが特にかわいかったな、のろのろしてて」
「はるくんもアフリカコーナーが一番好きですよね?」
「なぜわかった」
「顔に出てましたよ。あと足取りも軽快といいますか、そんな感じでした」
「そんなに俺ってわかりやすいかな?」
「うーん……なんといいますか、慣れですかね」
でもだいたいは予想の範疇で、それが当たってたら嬉しいくらいの感覚です、と付け加えて彼女は俺に向けてはにかんだ。
「そっか」
「そうですよー」
ある程度年を重ねてからは『何を考えているかわからない』と評されることが多かったように思える。
おまえってわかりやすいな、と言ってきた人だっていたかもしれない。
けれど、記憶にはあまり残っていない。
──何を考えているのか、全然わからないんです。
──私のことが嫌なら嫌って言って下さい。直せるなら直しますから。
──嘘ですよね? 私は、そんなこと、ひとことも言ってないです。
そんな風に言われたのはいつのことだったっけ。
向かいのベンチで二人組の女の子が揃ってシャボン玉を飛ばしている。
その隣のベンチでは男の子がラムネを飲んでいる。
「……あついな」
「まあ、ここ日陰ですけど、そうですね」
「待ち合わせの時間過ぎてるし……」
「飲み終わっちゃいましたね」
ベンチに座ったまま足をバタバタしている。
お互い暇、というか時間を持て余している。
「……そういえばさ、シャボン玉って春の季語らしいよ」
「夏じゃないんですか?」
「うん、理由は知らないけど」
答えるとすぐに、
ちょっと、と正面を向いたまま言われた。
「あの……さっきからずっと後ろから視線を感じるんですけど」
「視線って……」
そう言われるとビビるわ。てか怖いわ。
「迎えの人じゃないかなと思いますけど」
「あ、そう」
先にそれを言えよ、俺がビビリだと露見しちまうだろうが。
振り返る。女の人と目が合う。
その女の人は俺たちに向けてにっこり笑うと、ずんずんと近付いてきた。
「はるー! ひさしぶりー、元気だった?」
独特なゆるい声音。聞き覚えがあってどこか懐かしいような感覚。
ひらひらと手を振って、これまたゆるい顔で微笑みかけられた。
「おひさしぶりです。ゆかり……さん」
「もー……。敬語なんて使わなくてもいいのに!
昔はゆかりお姉ちゃんゆかりお姉ちゃんってかわいかったのになー」
……いつの話だそれ、マジで覚えてねぇぞ。
ゆかりさんって呼んでた、そしてその前はゆかりちゃん。
「じゃあ……ゆかりさん、でいいよね?」
「うんうん。……で、そちらの子は?」
なぎさは、はっと顔を上げて、深々とお辞儀をした後に、軽く自己紹介をした。
「学校の後輩でバイトが同じ、ね……。
んー……ここにはデートしに来たの? 二人は付き合ってるの?」
うりうりと肘で脇腹を小突かれる。
「……付き合ってないよ。
そんで、ここにはバイト休みだから出掛けるかってことで来た」
「へー。まあ、外だとなんだし、車あっちに停めてあるから行こっか」
キーチェーンを指先で遊ばせて、くるりとターンをした。
なんでこの人はこんなにテンション高いんだろう。
「あの……ゆかりさん? とはどういったご関係で」
言われてみると、たしかにゆかりさん名乗ってないわ。
「父親の妹、叔母さんにあたる人だよ」
「え、っと……。はるくんのお父さんの妹さんにしては随分と若く見えますが」
「あー、それな」
「……」
「よく知らないけど歳めっちゃ離れてるんだよ。
お若いですね、とか喜びそうだから絶対言うなよ」
「なるほど……。いや、全然なるほどじゃないですけど、わかりました」
適当な説明なのに一応納得はしてくれるのな……。話が早くて助かる。
◇
「さあ乗った乗った。なぎさちゃんはわたしの隣ね!」
二人は早々に前席に乗り込んで、俺もそれに続いて乗車した。
シートベルトをするように言われて慌てて取り付けた後に、中を見渡すと、
ダッシュボードは本革風で装飾は金属調で、車の趣向は特にないのだが。
なんだこれ、すっげぇ高そうだ。
そんなことを考えているうちに、低い駆動音を立てて、車が走り出した。
なぎさは先ほど買ったであろうコーヒーをゆかりさんに渡していた。
そのぶんまでよろしく、とは俺も気付いていなくて言わなかったのに。
こういう細かな気遣いにおいては頭が上がらない。
遅れてゆかりさんから軽い自己紹介があり、その後二人でしばらく会話をしていた。
「ねえ、ゆかりさん」
「ん、どしたの?」
「この車ってゆかりさんの車?」
「うん、そうだよ。わたしの愛車」
そう言って少し自慢げにぽんぽんとハンドルを叩く。
……あ、思い出した。
これSUVってやつだよな、たしか。
「そうなんだ。てっきり彼氏の趣味とかだと思った」
「ふーん……彼氏、ね……」
「えっと……ちがったならごめん」
「はは……。残念ながらわたしの趣味なのよね」
「……」
やらかした。
これはあれだ。ただの失言だ。
「やっぱりおかしいかな……? なぎさちゃんはどう思う?」
優しい声音でなかなかのムチャ振り。
人となりを知らないわけだからイメージで語るしかできないと思うのだが……。
「かっこいいですし、私もこういう車乗りたいですよ」
「えー、この良さがわかっちゃう?」
「はい、ゆかりさんにも似合ってると思いますよ」
「……だそうだよ、はる?」
「や、俺も似合ってないなんて言ってないし」
「ふーん。いいよねー、ひさしぶりに会ったと思ったらこんなにかわいい子連れてきて」
「かわ……えへへ、ありがとうございます」
にこりと笑う横顔に、ゆかりさんも笑顔で応えていた。
見るからに嬉しそうな反応だ。俺にはわざわざアピールしてくるのに、えらい違い。
「まえは……って言っても小学生ぐらいのときだっけか。
女の子連れてきたことあったよね」
「……千咲のこと?」
「あ、そーそー。ちーちゃんだ、今も元気にしてる?」
「うん。まあ、元気かな。千咲も俺らと同じ高校だよ」
「おおー! いいねいいね。あのころはわたしもピチピチの女子大生だったなあ……」
たしかに、家でずっと暇そうにしていたっけか。
「ゆかりさんは、何のお仕事されてるんですか?」
「ん……わたしは高校の先生やってるよー」
「そうなんですか」
「……科目なんだっけ?」
「国語だよ。ほんとは社会科目が良かったんだけどね、倍率が高くて」
初めて聞いたな。
歴女か。最近めっきり聞かないけど。
「つまり、消去法ってことですか?」
「まあ、言っちゃえばそうなんだけど。
でも、なったらなったで、国語教師もなかなか良いものだよー。図書館の担当やりますって言えば部活の顧問持たなくていいし、職員室にずっといなくてもいいし」
「あ、それわかります。私の担任も国語科ですけど、いつも暇そうにしてます」
「テストの採点は地獄そのものだけどね……」
「じゃあ、部活もなくてテストもない今は暇ってことか」
「うんうん。課外講習も三年生担当って訳じゃないから、一週目で終わり」
左折して、国道から一本横に逸れた道を進む。
高い建物はほとんどなくなり、すれ違う車は軽トラと軽自動車が多くなってきた。
「そいえば、ハルは文系?」
「そうだよ」
「なぎさちゃんは?」
「高一なのでまだ決定ではないですけど、進路希望調査は一応文系で出しました」
「ほーほー……てことはわたしたち文系仲間だね」
「そうなるね」
なぎさの進路については初めて聞いた。
うちの学校は男女比が大体6:4くらいで、女子でも理系が一定数はいるから、理系のほうがひと学年のクラス数は多い。
もっとも、高一段階で成績がある程度良い位置にいれば文系よりも理系を勧められるからってのもあるかもしれないが。
俺に関して言えば、数IIIが面倒そうだったのと、地歴が少し得意だったから。
そんな単純な理由で、あまり将来の職業については考えずに決めた。
「楓はたしか理系だったよね」
「うん。知ってたんだ」
「まあ、楓とはたまに電話するからね。去年も会ったし」
「そっか」
「あ、今日楓は来ないよね?」
「……受験生だし、まだ予備校行ってると思うよ」
「そっか……そうだよね。どこ大受けるとかは?」
「いや、なんも」
「んー、わたしにも教えてくれなかったしー。
じゃあお兄ちゃんは? また仕事で来れない?」
「たぶん」
「ま、まあ……連絡しても出ないしね、そうだよね」
「……そうなの?」
「……うん、そうみたい」
そんなところだろうとは思っていたけれど。
「だから! なぎさちゃん来てくれてうれしいなー」
「あ、えっと……。ありがとうございます……?」
「……女の子がいると嬉しいなあ。わたし、連れてくる人なんていないし……」
男で悪かったな。
つーか、やっぱり彼氏いないのか。
「てことは、俺たち以外の他の人も来るってこと?」
「うんそうだよー。お母さんから聞いてない?」
「……マジか。近所の人とか?」
「そーそー。あとは薫乃さんとか……親戚の人たちかな。
わたしも女のなかで一番年下だと、肩身狭いし」
「そうなんですか……。そこで私の出番というわけですね」
「うんうん! というわけで、ハルはめんどくさい大人に絡まれても頑張ってね」
「あ、うん……頑張る」
後ろには(希望的観測)とつけてしまいたいくらいだ。
なんとなく(悪い意味で)いろいろ想像できた。
数年ぶりだけど、あの人たちが集まったときのテンションはちょっと。
日が被ってるなら事前に教えてくれれば良かったのに。
大方そうならこっちに来なくなると思って言わなかったのだろうけど。
でもまあ、そんな悪いことは起こらないだろ。
たいていの人は顔見知りだろうし、絡まれたら面倒かもしれないが俺もそこまで子どもってわけでもないし。
知りたかったことについても、何か手がかりが掴めるかもしれないし。
◇
家に到着してすぐ、こんなところだったっけ? なんていう感想が口をついて出てきた。
なんとなく、鞄のなかに放り込んでそのままにしていたスマートフォンを取り出した。
通知がいろいろ来ていて、でも早急なものは見たところ無かったから、するすると流し読みだけして電源を落とした。
ゆかりさんは手伝いがあるやらなんやらと言って先に行ってしまって、二人で部屋に荷物を運んだ。
隣の彼女はどこか落ち着かない様子だった。
わけを尋ねると、
「千咲先輩とも来たことあったんですね」
と、なんだか要領の得ないようなことを言われて、
それに続いて、
「初対面の人が多いと、やっぱり緊張しますね」
と呟いて、ふうと息を吐いた。
ああ……そうか。失念していた。
「ごめん……悪かったな。俺も他に人来るとは知らなくて」
「大丈夫です、仕方のないことですから」
返答のあっさりさに、なんとなく、話を逸らされた気もしてくる。
「……他に何か気になることでもあった?」
「いえ。……下、行きましょうか」
「そうか。うん、行こうか」
気にしすぎか。俺も少し緊張しているのかもしれない。
「そういえば、連絡入れとけよな」
「……誰に?」
「ミヤコさんに、到着したよって。
あれだ、俺からするのも気が引けるし」
「大丈夫だと思いますけど……うち基本放任主義ですし。
それに今は仕事で携帯見れないでしょうし……」
「まあ、そこらへんはよく知らんけど、おまえも一応女の子なんだし、しとくのが良いと思う」
「"一応"女の子ですか」
不満か。
「……じゃあ、訂正。なぎさはかよわい女の子だからってことで、良いよな?」
「はい、かよわい私ですね、わかりました」
◇
半ば宴会場と化した大広間は多くの人々で賑わっていた。
玄関に置いてあった靴の数と、ここにいる人の数はどう考えてもかけ離れていて、長机が三台でギリギリ収まるというくらいだった。
ゆかりさんに呼ばれて、入ってすぐ左の空いているスペースに腰掛けた。
なぎさはゆかりさんの隣で壁際に、俺は通路側に。
昔に見たことがあるような女の人によって食事が運ばれてきた。
日本昔ばなしに出てきそうな山盛りの御飯。
海鮮料理。
マグロ、イカ、タコ、エビ、サーモン……。
天ぷらに握り寿司。
焼き魚にお新香までついている。
好物ばかりだ。
量もさることながら、すごく美味しそうに見える。
他の人たちはもう手をつけていて、ゆかりさんとなぎさも、いただきますと言って食べ始めた。
俺もいただきますか、と内心心躍りながら箸を握ると、同時に後ろから肩をとんとんと叩かれた。
振り返ると数人が目の前に立っていて、その中の一人が話しかけてきた。
「ひさしぶり、ハルだよな?」
「……どうも。おひさしぶりです」
「ばあさんが言ってたから知ってたが、こっち帰ってきてたのか」
「うん……まあ、俺一人ですけど」
「おー、そっかそっか。とりあえず、こっちきて一緒に食べようや」
ちらっと奥のほうを確認すると、今の位置から二つ向こうで食べているようだった。
さっきから話しかけてくる人、昔会ったような記憶と共に見覚えはあるが、というか親戚の人だと思うが、その人名前を覚えていない。
周りにいる人についても同様だ。
「あ、でも……」
「どうぞどうぞ、わたしはなぎさちゃんと食べてるからさ」
一瞬にして退路を断たれた。
じゃあ決まりだな、と言って、元の席に戻っていってしまったので、諦めて渋々ついていくことにした。
「はる」
「……どしたの?」
「ちょっと、耳かして」
テーブルから身を乗り出して、ゆかりさんは俺に頼んできた。
「え? ああ、うん」
言われた通りに耳を近づけると、彼女は少し間を置いて、小さく頷いたあとに、顔を近づけてきた。
「はる……、その……頑張ってね」
「……」
「……さすがに大丈夫だと思うけど、もし嫌だったら、わたしのほう見て」
なんとかするから、と。
そう言われてみたものの、俺はその言葉の意味がよくつかめなくて、首をかしげることでしか反応ができなかった。
きっとさっきから続くからかいかちょっかいの類だと思って、そのときはあんまり深く考えなかった。
でも、実際その通りになったのだから、きっとゆかりさんは全部わかっていたのだと思う。
◆
なんてことのない、ただの休日だった。
その日は、雨が降っていた。
朝の予報なんて見ずに家を出たから、当然傘なんて持っていなくて、手提げ鞄を傘にして走るでもなく濡れながら帰っていた。
ずぶ濡れで帰宅すると、大きめのタオルを持った父親が玄関に立っていた。
こんな日に限って、というより、父親は出張だったはずだ。
姉も母親もうちにはいなくて、置いてある靴は父親の一足だけだった。
差し出されたタオルを受け取って、軽くありがとうと言ったあとも、父親はその場から動かなかった。
シャワー浴びるから、と言って横をすり抜けようとしたとき、ぐいと腕を引っ張られた。
「ハル……おまえ。なにかあったのか?」
「……なにかって?」
「いや、俺の気のせいならいいんだが……」
「そっか……べつになんもないよ」
「……じゃあ、どうしてこんなに遅くまで帰ってこないんだ?」
「友だちと遊んでたんだよ」
「友だち、か……。最近はいつもそうなのか?」
「……なにが言いたいの?」
「おまえだって、今年は受験生だろ?
勉強とか、そんな遊んでばかりじゃ駄目じゃないか」
忠告というか、諭すような物言いで、父親は俺に向けて言葉を放った。
「……わかってるよ。でも、成績も自分で言うのもなんだけど悪くないし、特に困ってることなんてないよ」
「本当か?」
「……」
はなから信じていないとでも言うように、父親は俺に問い返す。
そのとき、すぐにでも頷けば良かったのかもしれない。
タイミングを逃してしまって、俺の心情を見透かしたのか、父親は小さくため息をついた。
そして、やっぱりそうか、とくぐもった声で言って、俺の手を離した。
「帰ってくる途中、千咲ちゃんに会ったよ」
「……」
「おまえ、ずっと一人で行動してるらしいじゃないか。
俺が朝起きるときにはもう家に居ないし、夜だってこの時間なんだろ?」
「……だから?」
それのなにが悪いんだ? と口に出しそうになって、すんでのところでそれを抑えた。
良いとか悪いとか、俺が中学生だから夜が遅いと心配させるとか、そういうんじゃないのはわかってるけれど、それ以上言い返すことはしなかった。
「……部活を辞めたのだって、本当はべつの理由があるんじゃないのか?」
「……」
「一応、副キャプテンだったんだろ?
俺が知っているおまえは、そんな簡単に責任を放棄する奴じゃなかったはずだ」
「……続ける意味が感じられなくなっただけだよ。腰とか脚とかもずっと痛かったし」
「……そうか。でも、小学生のころから続けてたのにか? そんなにすんなりと切り捨てられるものだったのか?
何回かしか見れなかったけど、頑張ってたじゃないか」
……だから、それがなんなんだよ。
迷惑になるなら辞めたほうがマシだ。自分のついている役職なんて関係ない。
もともとキャプテン副キャプテンなんてのは形骸化されたものだった。
勝って俺のおかげ、負けて俺のせい。
考えてみれば、そんなことばかりだった。
俺の驕りかもしれない。でも、本当にそんなことばかりだった。
顧問は部活経験がない人で、真面目な部員もなかにはいるけれど、不真面目でサボる奴もいて。
俺だっていろいろ考えるようになって。
『母さん』のこととか、うちのこととか、これからのこととか……。
そこであれこれと考えずに、割り切ることが出来たなら、こんな苦労は無かったのかもしれない。
最初のうちは、だましだまし出来ていても、どこかで必ず綻びは生ずる。
──最近不真面目じゃないか? おまえがそんなんでどうするんだ。
──なにか悩みがあるのかどうか知らんが、おまえが頑張らなくて誰が頑張るんだよ。
顧問にそう言われたことは、今でも鮮明に覚えている。
そのときは苛立った。と思う。
顧問に関しては、もとからあまり好意的な感情は持っていなかった。
生徒主体なんて常套句を使って部活を放置して、そのくせ一丁前に精神論を語って走らせることだけして。
サボりも容認、問題が起こっても我関せずを貫く。
でも、そのとき顧問に言われたことは正論だった。
真面目派の中心にいた俺が不注意な行動をすると、他のメンバーにも伝染して、全体の雰囲気が悪くなる。
考えなくともあたりまえのことで、でも、それを肯定してしまうのはたまらなく嫌で。
きっと他の教師にでも言われたのだと思う。じゃなけりゃ気がつくはずがない。
顧問という体裁を気にして、全てを押し付けてしまいたかったのだと思う。
それまでやってきたことだし、これからもそれは変えるつもりは無い様だった。
人の都合で縛られて、無駄な気を回す。
……それに、意味なんてあるのだろうか?
「……わかったよ」
「なにが」
「言いたくないんだろうけど、いろいろあったんだろ?」
「だから、なにも……」
「顔見りゃわかるよ」と、父親ははっきりと言った。
「それに、あの子言ってたぞ。同じクラスだけど、おまえとしばらく話してないって」
「……千咲とは、喧嘩して」
「それは……おまえが悪いのか?」
「……」
なにも答えない俺に、父親は困ったような顔になって、ごめんな、と呟いた。
驚いて目だけ向けると、もう一度、すまん、と父親は言った。
「こういうことを話したかったわけじゃないんだ。
おまえに悩みがあって、それが他の誰にも言えないようなものなら、せめて俺には話して欲しいって、そう思っただけなんだ」
そんなの……言えるわけないだろ。
我慢することを放棄して、これさえあればと考えていたものを、自分から手放すなんて、出来るわけがない。
俺さえ我慢すればいいのだから。
「でも、これ以上は訊かないよ。いくら親でも、知られたくないことに踏み込む権利はないからな」
「……うん」
無理してでも、訊いてくれたらいいのに、問い詰めてくれたらいいのに。
後になってみると、ここが分岐点だったのかもしれない。
「……そうだな。風邪ひかないうちにシャワー浴びてこい」
じゃあシャワー浴びるから、と鸚鵡返しで言ってその場から逃げるように浴室に向かった。
父親にこういう話をするのは、それが初めてのことだった。
◇
それで──。
自分の前に配膳されていた食べ物はそのまま、大人たちの集まる所に行って、そこで食事をとることにした。
いろいろと話を振られて、まあ適当に答えて。
多くの人は酒を飲んでいて、テーブルの上には空き缶とジョッキが並んでいる。
そのうち、俺があまりよく覚えていないのに気がついたらしい周りの人は自己紹介をし始めて、あー、こんな人もいたなあ、みたいな感想を抱いた。
……それもそのはず。
うちの人(と言っても父親だが)は、親戚付き合いがあまり良くなくて、こういう集まりに顔を出したりはしない。
昔はもう少しここに来ていたような記憶もあるが、お盆前とか、年越しから一週間が過ぎたあとだとか。
いや、俺もはっきりとは覚えてはないから、決めつけは良くないのではあるが。
あれも食べてこれも食べて、と取り皿に食べ物を沢山盛られて、奥からはエンドレスで米が出てきて。
昨年は楓ちゃんが来たなー、と誰かが言ったのを皮切りに、その話で盛り上がりだした。
いちご狩りに行ったらしい。聞いていない。
今年は受験生なんで来れなかったみたいです、と俺が口を挟むと、あー受験生ね……なんていう地味な反応が返ってきた。
多分何度か小さい頃に行ったことのある駄菓子屋の店主や、三軒先の気のいいおばちゃんの息子だったりは姉のことがえらくお気に入りのようで、
姉の人当たりの良さというか、そこらへんは詳しく知らない一面なのかもしれない。
ゆかりさんの危惧していた(?)ことにはならなそうで、
なんだ、やっぱりからかわれただけなのか、と少し安心しかけたときに、がらっと奥の扉が開いた。
その音の主は、どうもどうも、と言って部屋に入ってきて、俺の顔を見るなり、わかりやすく驚いた顔をした。
「おお、こっち来てたのか……。ひさしぶりだな」
「おひさしぶりです」
急に話しかけられたもんだから、俺もその場に立ち上がって、軽く会釈をした。
「……おっきくなったなー、いまは高二だっけか」
「そうですよ」
「身長なんぼあんの? 俺よか全然でかいじゃんか」
「……えっと、でも180ないくらいですよ。そんなに大きいわけでもないというか」
「まあまあ、素直に喜んどけ。で、席は席は……っと」
あらかた埋まっているなかから空席を探している彼に、たくさんの人が声をかけていた。
彼──ハジメさんは、父親とゆかりさんの兄で、この家の長男だ。
気を利かせた人が親戚らの集まるここにハジメさんの場所をつくったようで、結局彼は俺の向かいに座ることになった。
そして暫くは、ここらの地域のことだとか、親戚付き合いのこととか、俺にあまり関係のない会話で盛り上がっていて、その間に机に残ったものを食べた。
ちらっと、向こうに気付かれないようにゆかりさんとなぎさのいる方向を見た。
声は聞こえないが、二人は楽しく談笑しているようだった。
◇
「で、こっちには一人で来たのか?」
不意に、俺に話題が振られた。
慌てて箸を止める。
「いや、えっと……。あっちにいる子と二人で」
「あっち……って、ゆかりの隣の子か?」
「うん」
「……彼女か?」
「……付き合ってはなくて、学校の後輩の子……なんだけど」
「うーん、別に誤魔化さなくてもいいんだぞ」
「……」
「彼女のこと放ったらかしにするなんてダメじゃないか、ここに呼んできなさい」
「いや、まず彼女じゃないんで」
「いいから、呼んできなさい」
話を聞かないのか、この人は。
俺がここに連れてこられたのが問題であって、あっちに戻れば済む話なのではあるが、そういうことではないらしい。
……面倒、というか厄介だ。
仕方がないから呼びに行くと、ゆかりさんが立ち上がって、ハジメさんの所へ行った。
「はるくん、どうかしたんですか?」
「あー……。なんか、女の子連れてきたんなら紹介しろ的な」
「え、っと……。そうですよね、私まだ誰にも挨拶してませんし」
「付き合ってるって勘違いされてるっぽくてさ」
言うと、なぎさはふむと首をかしげた。
「それは、私とはるくんがですか?」
「そう」
「……じゃあ、彼女で通しましょうか?」
「……ばかか、おまえは」
「えー。まあ、いちいち訂正するのも面倒だなって思っただけなんですけどね」
危うく本気にしそうになっちゃうだろうが。
自分の素直さに呆れるばかり。
「あっち行かなくて大丈夫だよー。なぎさちゃんはわたしと楽しくおしゃべりするからって言ってきたから」
ゆかりさんナイス助け船。
さっきのってこういうことだったのだろうか。
「そうですか」
「じゃ、俺もここにステイしようかな」
「それはダメ。はるはあっちに戻りなさい」
「どうして」
「いいから」
そう言われたらそう言われたで、また聞き返すのも忍びないので、特に考えず戻ることにした。
そして、戻ってすぐ、お茶を飲み干して空いているグラスにお酒が注がれた。
「……」
二度見する。
普通にお酒だ。泡立ってるし、俺のグラスだし。
「飲んだらどうだ?」
「えっと、俺まだ未成年なんだけど」
「いいから」
おお、初遭遇。
保健体育の教科書にイラスト付きで書いてある親戚に酒を無理やり飲まされるやつ!
心の中でテンションをあげてみたものの、余計飲む気にはならなかった。
「ひょっとして、まだ酒飲んだことないのか?」
頷く。
というのも、中学の時は知り合いで酒を飲んでいる人もいたが、高校は比較的真面目な人の集まる進学校であるから。
コンビニで明らかに年齢が微妙な人もいるし(スルーして良いものなのか判断に困る)そりゃ探せば一定数はいるだろうけど、自分と関わりのある人は酒を飲んだりはしていないはずだ。
まあ、まず法律的にアウトなことには変わりはない。
「高二にもなって? 友達と飲んだりしないのか?」
「しない、けど」
「はあ……。おまえもマジメちゃんかよ」
「……」
そっちのほうがおかしいってのに、その言い方はどうなんだ。
黙っていると、ハジメさんは呆れたようにため息をついて、俺を睨みつけた。
「ひさしぶりに会ったってのに。……ほんとそっくりだよな」
「……」
「そうやって困ると黙るところ、あいつにそっくりだよ」
あいつ、か。
「あいつはどうしたんだ? こっちには来てないみたいだけど、どうしてだ?」
「……父さんのこと、ですか?」
「そうだ」
「父さんは、仕事忙しいから行けないって」
言ってないけど。そうだろう。
「……まあ、そうだろうな。あいつのことだ」
「……」
……俺は、あまり真面目ではないと思っているし、今だって考えずに酒を飲んでしまえばいいのかもしれない。
コミュニケーションと言われればそれまでで、半ば強要ではあるけれど悪気はないのかもしれない。
でも、それを避けようとする、嫌に思うのはやっぱり内面ではどこか真面目であるからで、
父親や姉だったら、こういうのは駄目だと言いそうだ、
なぎさがいるから、変に酔って迷惑をかけることなんてできない、
ゆかりさんはいるけれど一人きりにするのは申し訳ない
と、いくつか要素があっても、つまるところ俺の精神性で、やめろと言っているのだと思う。
どこかで誰かが必ず見ている、だから、悪いことはするな。
「また黙るのか。飲むのか、飲まないのか、どっちなんだ?」
言いながら、ハジメさんは自分の酒を呷る。
周りの人もみんな酒を飲んでいる。
でも……。
「……お酒、ほんとダメだろうから。
多分苦手だし、ごめんなさい、飲めません」
「はあ、おまえもつまらないやつだな」
「……」
「そんなふうにしてると、あそこにいる彼女にも、いつか愛想尽かされちゃうかもしれないぞ?」
いいのか? と彼は嫌味ったらしく言う。
今までのやりとりとそれとの間に何か関係があるのかは、まったく掴めない。
……わけでもない。彼の言いたいことはなんとなくわかる。
「頭だけはいいんだよな、あいつと同じで。それで、腹のなかでは他人を見下してる」
「……」
「その目だよ、その目。俺のことが嫌いか? こうなったのはおまえが原因だろうが」
いつの間にか、睨みつけてしまっていたらしい。
けれど、どうしてこんなことを言われなければならないのか、理解できなかった。
俺に会ったら文句を言おうと決めていたとか、気に触ることばかりしてしまっただとか、考えればキリがない。
父親とハジメさんの仲があまり良くないのは知っていた。
でも、兄弟喧嘩の延長なら俺を巻き込まないでほしい。
困った。
モヤモヤする。
考えると黙ってしまうのは本当だ。
面と向かって誰かに悪口を言われるのはひさしぶりで、かなり気分が悪くなる。
答えずにいると、彼は軽く舌打ちをした。
こういうこと、だったのだろうか。
父親と実家の人たちの不和。
けれど、証拠が足りない。
耐えきれずに目を奥に向けた。
さっきと打って変わって、ゆかりさんと案外すんなり目が合った。
◇
「ごめんなさい、付いて来てもらっちゃって」
「いや……ここ広いし、廊下暗いだろうから、しょうがない」
「……ありがとうございます」
「いいって」
「……あの」
「なに?」
「……ゆかりさんってエスパーなんですか?」
「ん?」
「いや、あの……。私がトイレに行きたいってよくわかったなって」
「ああ……。なんでだろうね、なぎさがめっちゃモジモジしてたんじゃないの」
「それはないです」
おうよ。
知ってるわ。
「ちょっと、疲れちゃいましたか?」
「……え?」
「いえ、疲れたような顔をしていたので」
「そんなこと……ない、と思うけど」
あるから困る。
疲労というよりは心労。嫌になる。
「……何かあったんですか?」
「ないよ」
「すぐ否定すると、逆に怪しいですよ」
「確かにそうだな」
察しがいいのも困りどころだ。
「なぎさは……疲れた?」
「いえ、そこまででもないですよ。
食べ物も美味しかったですし、ゆかりさんと話すのも楽しかったです」
「どんな話したの?」
「ヒミツです」
じゃあ無理には訊かないか。
と思ったところで、目的地に到着した。
「ここ、電気つけとくから、戻るときに消してきて」
「わかりました」
じゃ、とその場から離れようとすると、彼女は俺の手をぐいと引っ張った。
「……」
振り返ると目が合った。
彼女は顔を赤くして俯く。
「あ、えと……。いや、なんていいますか」
「暗いの怖い?」
「え」
「いや、付いててほしいならここにいるけど」
……半分くらいは俺の願望なんだけど。まあ、これもしょうがない。
「……そういうわけじゃなくて」
「……」
「あっ、そういうわけじゃなくもないんですけど……」
「どっちだよ……」
なぎさはうむむと唸って、もう片方の手をぶんぶんと上下させた。
再び目が合う。今度は逸らされなかった。
お互い深呼吸をした。なぜか同時に。
「──今日水族館で」となぎさが切り出した。
「ラッコが、いたじゃないですか」
「……うん? いたけど。それが?」
「二匹で、手を繋いで寝てました」
「……」
「ぷかぷかっと、幸せそうに見えました」
「うん」
「あれは流されないように、とか、コンブが水族館にないから、だとかが理由らしいです」
「そうなんだ」
初耳。
「です……けど。でも、それよりも……。どう言うのが正解なのかわからないですけど。
手を繋いでると、安心しませんか?」
「……」
どうだろう。
答えあぐねていると、ふうっと息をつく音がした。
「……おまじない、みたいなものです。
あとは一人で大丈夫ですから、戻ってていいですよ。
付いてきてくれてありがとうございました」
そう言って手を離されて、バタンとドアが閉まった。
個人的に何か理由を付けて待っていても良かったのだが、女の子が入っているトイレの前にいることが少し気恥ずかしくなって、戻ることにした。
「おまじない、か」
歩きながら、そう呟いてみた。
でも、あまり釈然としない。
なんだかひどく、頭がいたかった。
あっちに戻って、また同じようなことを言われたらどうしようか。
彼が言いたかったのは、うちの両親のことだ。
逃げられた。
……違う。
きっと、みんな知らない。
父さんからすれば、仕方がなかったのかもしれない。
詳しくは訊けなかった。
申し訳ないから、思い出したくないけれど、いろいろなことがあったから。
部屋に戻ると、食事は既に片付けられていて、人の数がかなり減っていた。
三つ並んでいた長机は、一つの大きな円卓に変わっていて、それを残った人が取り囲んでいる。
「おかえり」
ゆかりさんに手招かれて、端に腰掛けた。
「なぎさちゃんは?」
「まだトイレ、行くまでにちょっと話してたから」
「そっかそっか」
「人減ってない?」
「なんかね、温泉行くって言ってみんなで出てっちゃった」
「そう」
「……わたしたちも行く? ちょっと遠いけど」
「いや、いいよ」
疲れているから。
「ゆかりさんは、お酒飲まないんだ」
「うん。すぐ酔うから弱いし、お酒は苦手なんだよー」
「でも、常に酔ってるみたいじゃん」
「うぐっ、それ同僚の子にも言われたことある……。
うちの人で、お兄ちゃんとわたしだけ全然飲めないんだ」
「……父さんは、うちに帰ってきたときは飲んでるけど」
「ほんと?」
「うん」
「そっか……。うーん、苦手じゃなくなったのかな?」
「……わかんないけど、少なくとも前よりは」
「まあ、はるは絶対飲んじゃダメだよ」
「……なんで?」
「両親ともに苦手なら、絶対子どもも苦手でしょ」
「遺伝?」
「下戸かどうかは、遺伝あるらしいって聞いたことあるよ」
「そうなんだ」
時計は二十二時過ぎを指していた。
知らないうちにかなり時間が経っていた。
集まりのほうに目を向けると、一人一人立ち上がって、選手宣誓のようなことをしていた。
よく見ると、残っていたのはさっきまで俺の周りにいた人たち。
つまり、町内会や近くに住んでいる人たちが多く残っていた。
「あれ、何やってるの?」
「……いつもやってるけど、なんだろうね?」
「……ゆかりさんは混ざらないの?」
「えー、やだよー。ムリムリ。
今日も『うちのとお見合いしないか?』って何回もいろんな人に言われて……」
「それ自慢?」
「……いや、かなりヘコんだって話」
「そうすか」
「うん、この話はいいとして……。なぎさちゃん遅くない?」
「見てこようか?」
「……わたしが行くよ」
「そう? じゃあ、よろしく」
びしっと敬礼みたいなポーズをして立ち上がって、ゆかりさんはそろそろと部屋の外に出て行った。
あ、と。
一人になったことに気付く。
ぼーっとあっちの様子を眺める。
中年くらいの人が大きな声で自己紹介をしたあと、コップの飲み物を一気飲みして、そのあとにみんなで拍手。
地獄か、あれは。部活の朝練じゃないんだからさ。
ここで出て行く素振りを見せようものなら、当然のように引きとめられて酒を飲まされる未来が見えてきた。
何というか、想像力だけは豊かになっているらしい。
この時間になって頭が冴えてきたような気もする。
とりあえず、壁にもたれかかって地蔵になることにした。
こんな時にすることといえば瞑想。
でもすぐ飽きる。経験談。
姉は家に一人で寂しがってないだろうか、なんて。
比較的ポジティブな想像。よりも妄想。
あー、とりあえず姉に連絡入れとくか。
にしても遅えな……。
どっかに散歩にでも行ってるのか。
荷物の中から本か何かでも持って来れば良かった。ズボンのポケットに入れっぱなしにしたスマートフォンを取り出すのも何だか気が引けた。
「どうしたの?」
声をかけられる。
昔聴いたことのある声。
「……どうもしないですけど、することもないので」
「あ、そう……。ゆかりとなぎさちゃん? は、後片付け手伝って貰ってるけど」
「薫乃さんは? サボり?」
「いやいや。私は休憩、仕込みとか大変だったんだよ」
「そうなんですか」
この人も、久しぶりといえば久しぶりなのか。
「もー、無愛想だなあ。久しぶりに会うのに」
「はあ……」
「にしても、彼女連れてくるなんて!」
まあ、そうなるよな。話題らしい話題もないし。
「いや、彼女じゃないです。なんでかいろんな人に勘違いされてるみたいですけど」
「そうなんだー。ま、若いときはそういうことあるよね」
「……」
「一緒に登校してるのを見られるとか、学校で話してるのを見られるとか」
「リアルですね」
「何度も言われてると、そのうち満更でもなくなるやつ、経験ない?」
「ないです」
あります。
「……ていうか、おばさんとする会話じゃないよね」
はあ。反応に困る。
「……薫乃さんの経験談?」
何てことのない軽口。
なのに、目が合うと彼女は目を泳がせた。
「……いや、そうじゃないけど」
「……」
墓穴。なのか? よくわからない。
「あのさ……」
「おい、そこにいる二人。こっちに来なさい」
薫乃さんが口を開くと同時に、向こうにいるハジメさんから呼び出される。
見つかった、というか、見てはいたんだろうけど、薫乃さんといるのを見て話しかけてきたらしい。
薫乃さんの肩がびくっと跳ねる。
そして、俺の様子を気にするように、そーっとこちらを見つめてきた。
「別に、大丈夫だと思うよ」
ぼそっと、薫乃さんにしか聴こえないような声で返答した。
今回はゆかりさんの助けはない。
逃げるようにしたのも、バレバレだったとも思う。
「……で、だ」
パンパン、とハジメさんが手を叩く。
つまみとともに酒を飲む人たちの手が止まる。
「あいつはどうした?」
彼は俺に、まっすぐと問いかける。すぐに俺に注目が集まる。
のっけからさっきの続きを話そうか、ということか。
「さっきも言いましたけど、仕事とかで忙しいんだと思います」
「この季節に? 親戚が集まっているのに?」
「……」
「楓ちゃんは?」
「家にいると思います」
「一人で?」
「はい」
「じゃあ、普段は家にずっと二人なのか?」
「……そうです」
「ほら、話した通りじゃないか」
そう言うと、周りにいた人たちが苦い顔をする。
憐れむような目で見つめられて、気分が萎える。
いや、まだ大丈夫なはずだ。
後手を踏まなければ、或いは。
「姉弟どっちもまだ高校生だろ? それに、楓ちゃんは受験生らしいじゃないか」
「……」
「子どもを放置するなんて、悪い親だな」
どっちみち、答えようがない。
「……おまえはどう思ってるんだ?」
「どうって……」
「嫌いなんだろ? おまえも、あいつのことが」
おまえ"も"。
「こっちに帰ってこない。帰ってきても顔を合わせようとすらしない。
そっちに出て行ったっきり、そのままだ」
「……」
ため息が出そうになる。
答えようがない質問で、でも答えないと嫌な顔をされて。
形だけ見れば正論をぶつけられていて、余計タチが悪い。
「……薫乃だって、そう思うだろ?」
「え?」
「薫乃、どうなんだ?」
急に矛先が薫乃さんに向かった。
薫乃さんと父親は、何か特別な接点でもあったのだろうか。
「私は……別に」
「別にって、別になんだ?」
「……」
薫乃さんは押し黙る。
わけがわからない。
目の前で自分の親のことを悪く言われている。
深い苛立ちのようなものを感じる。今まで言われたことが無かったからだろうか。
「……私、ちょっと戻ってます」
沈黙を破るように、薫乃さんはそう言ってから立ち上がり、そそくさと扉の方へ向かっていった。
「どう思うよ、ハル」
「……何がですか」
「あいつは、ここにいる人全員を見下してるんだ。
自分の世界に入り浸って、不都合になるとすぐに切り捨てる。田舎を捨てたのだってそうだ」
……。
「おまえの母さんだって、愛想を尽かして出ていっちゃったじゃないか」
「……」
「可愛らしい奥さんだったのに、あいつのせいで。
奥さんを連れてこようともしない、結婚式だってしなかったじゃないか」
……そんなの知らねえよ。
母さんのことを言われると、迂闊に反論はできないし、彼の言い振りから、やはり此処にいる人は誰もわかっていないのだ。
「子どもは親を選べないからなあ」
俺のことは御構い無しに、矢継ぎ早に言葉を投げかけられる。
周囲の人もうんうんと頷く。
「おまえも、あいつに似てきたな。
やっぱり親子だ、そっくりだ」
似ている。そっくりだ。さっき言われた通りのことだ。
確かに、あんな親にはなりたくない、と思ったことはある。
というよりも、思っていた。
でも、何故か今の俺は苛立ちを募らせていた。
二人では広すぎる家、不安定になった姉、半ば自暴自棄になった俺。
おかしいのは自覚していた。言われなくともわかる。姉だってわかっている。
誰か助けてくれればいいのに、母さんがいてくれればいいのに。
家にいるのが気持ち悪いと思うようになって、平穏が訪れたかと思えば、その代償は大きくて。
どうして、またこんなことを考えなければならないのだろう。
「どうしておまえは、母親のほうに付いていかなかったんだ?」
耐えろ、やめろ。
「……まただんまりか。あの親にしてこの子有りだな」
頭が痛い。
「そういえば、あの子再婚したんだってな。
結果的には良かったじゃないか、あいつから離れられて。今は凄く幸せなんじゃないか」
「……」
「楓ちゃんが可哀想だ、あんなにいい子なのに、こんな家族の中にいて」
ぐらり。
何かが歪むような音が聴こえた。
偏頭痛のような痛みと、胃の中の物を吐き出してしまいそうな不快感。
いつの間にか、拳を強く握ってしまっていた。
俺は、それだけは言われたく無かったのかもしれない。
俺のせい、俺が悪い、俺が我慢できなかったから。
そう言われているようだった。
父さんは、母さんに捨てられて。
……違う。違うんだ。
『わかった、なんとかする』、と酷く気落ちしたような表情と声音で言われて、一人で解放されたような気分になってしまって。
父さんに内緒で母さんと会っているのだって、罪滅ぼしのつもりだった。
今は少し、変わってきているのかもしれないけれど、ちょっと前まではそれ以上でもそれ以下でも無かった。
「伯父さん」
無意識に、そう口に出していた。
「なんだ?」
挑発的な態度をひけらかすように、彼はにんまりと嫌な笑みを浮かべる。
……ああ、わかってしまった。
伯父さんは、ここにいる人は、俺のことをよく思っていない。
さっきから感じていた違和感は、そういうことだったのか。
俺は、彼らから見て、"そういう存在"なんだ。
糾弾すべきもの。悪い親に似てしまった子。
そう見られているんだ。
それは忠告か。それとも、単に俺にストレスをぶつけているだけなのか。
間違いなく、後者だろうな。
考えてみても、心配なんて、された試しが無かった。
本当に俺らのことを案じて、悪い環境にいると知っていたなら、何かしてくれたはずだ。
住んでる場所が違う、父親と疎遠になっていた。
何か関係があるのだろうか。
父親への負の感情を置換して、俺にぶつけようとしている、ただそれだけではないか。
人を殴るような経験は無い、が……。
でも、握られた拳は、正座の後ろで床を鳴らしてしまいそうなくらい震えている。
落ち着け。
……冷静になれ。
真意が汲み取れて、なおも相手にする必要があるか。
俺以外に迷惑がかかる。ただでさえ悪い付き合いがさらに悪化してしまう。
──なら、取るべき行動は一つだけじゃないか。
「……お酒、貰っていいかな」
「うん? なんて?」
「だから、俺も、もう子どもじゃ居られないから。お酒、飲んでみたいなあって思ったんです」
「……ほ、ほう。じゃあ、これ飲んでみなさい」
コップを渡されるなり、躊躇せずに飲み出した。
社会の基本、一気飲み。あー、意外といけなくもない。無理してテンションを上げようとする。
「もう一杯、お願いします」
ハジメさんと周りの人は唖然として口をぽっかりと開けていた。
差し出したコップに、次は日本酒が注がれた。
それも間髪入れずまた飲み干す。
「美味しいですね……みなさんは飲まないんですか?」
「あ……じゃあ、飲みましょうか……みなさん」
「おかわり、もう少し下さい」
話を聞かない人に対しては、俺も取り合わないのが得策だろう。
お酒の味なんて全く感じなくて、美味しいも不味いも好きも嫌いもよくわからない。
ただ、このひと時でのその場しのぎは、どうにかなった……はずだ。
周りの人は少しずつばらけていって、時を同じくして何人かがこの家に戻ってきて。
話が弾んでいる。らしい。
どうでもいいことは聞き流す、注がれたものはとりあえず口に流し込む。
……あったまいてぇーな。
つーか、やっぱ無理だろこれ。
五杯目? いや、もっと飲まされたかも。
頬が熱い、頭痛が酷い。
部屋の明かりがやけに眩しい。
ぐるぐると目が回る。
まだハジメさんは俺に何か話しかけてきているのに、頭が働かなくて。
扉のほうから声がして。ドタドタと近付いてくる足音がして。
肩を掴まれる。
頑張って顔を上げようとしたけれど、うまく身体が動かなくて、支えられた側に倒れてしまった。
……慣れないことなんて、するもんじゃないな。
◇
涼しい。
季節は夏。そんでもって今は夜か。
虫の鳴き声と、心地いいような風。
嫌な夢を見たような気がする。
覚えていないけれど。
どうでもいいことばかり頭に浮かぶ。
目を開けて、まばたき。
身体(特に節々)は痛いけれど、起き上がるくらいなら。
「起きた?」
顔を覗き込まれて、手には団扇。
ゆかりさんだ。
「う……」
喉痛い。
「どうしてここにいるか覚えてる? 気持ち悪い?」
「びみょう」
「……お酒飲んだんだよー。わたしが行ったら、はる倒れちゃって」
「あー……」
「どれくらい飲んだの?」
「えっと……六? 七くらい」
「……吐きそうとか、暑いとかないよね」
「うん。多分だけど、大丈夫」
胃の不快感はあるが、昇ってきそうなほどではない。
寝げろ、もしてないっぽいし。
「……何が、あったの?」
「まあ、いろいろ」
「……」
あまり思い出したくない。
顔にそう出ていたのか、ゆかりさんは視線を下に落として、軽くため息をついた。
「わたし、お酒とか夜食とかの買い出し頼まれてて、もう行かなくちゃならないんだけどさ」
「うん」
「ここに一人で大丈夫?」
「……なぎさは」
「あー、えっと。お手伝いしたいって言うから、いろいろやってもらってる」
「……客なのに」
「い、いや……。あの子わたしよりも料理上手だったし、家事とか好きなんじゃないかなと」
「……」
「……お母さんも、張り切っちゃってね」
実際、俺もこの状態では会いたくない気持ちはあるから、助かっているのかもしれないけれど。
あの場になぎさは来ていなかったようだし、そこはゆかりさん達に感謝しなくてはならないのではあるが。
「俺も買い出しについて行っていいかな」
「うーん……動けるなら、いいけど。酒屋までは距離あるからだいぶ歩くよ」
「……ゆかりさん飲んでないなら、車でいいんじゃないの」
「や、わたしも……チューハイ一本か二本くらい飲んじゃったから」
「……まあ、とにかく歩くのは大丈夫っぽいから、付いてくよ」
立ち上がってみせる。
立眩み。ふらつく。
「だめじゃん」
苦笑される。
自分でも乾いた笑いが出た。
「しゃあない。歩いて回復、これ基本」
よくわからないことを言っていた。
「……倒れたりしないでよね、運べないから」
そう言って、ゆかりさんも立ち上がった。
許可は出たらしい。
「ゆかりさんもフラついたりしないの? お酒弱いんでしょ」
「なっ……。いや、さすがに、ほろよい二缶ではならないし!」
「まあ、そこらへんはよくわからないけど、行こっか」
歩き出すことにした。
時刻は二十四時近く。
さっき時計を確認した時から、そう時間は経っていないのに、
寝てたからか、なんなのか、日付が変わっていないことに驚いた。
◇
動き出しても、まだ頭の中はぐるぐると回ったままだった。
月はかげっていて、辺りはほぼ真っ暗闇。
かろうじて数メートルおきにある電灯で視界を確保して、ふらつく身体を押して歩いていた。
危なっかしいから手を繋ごうか、と言われて、なぎさとのやり取りを思い出して、
手が熱いとかなんとか理由をつけて断ってしまった。
酒屋に寄って、頼まれた物を購入する。
この時間までやってるだけあって、店主も酒を呷っていた。
行きの道中はほぼ会話はなく、隣より一歩後ろを歩いていて、なんだか申し訳ないような気分になった。
俺が二袋、ゆかりさんが一袋持って外に出ると、柔らかい風が頬を撫でた。
体温調節がうまくいかない。
砂利道を歩いて、少し舗装された所に行って、家に戻って。
泣きそうだ。そう考えつつ泣いたりはしないんだけれど、こう、気分が沈む。
どうにかして、時間を使いたい。
思えば、ああなると分かっていて、なぎさを遠ざけてくれたのかもしれない、
それなら、俺が戻ってくる前に対処したのではないか?
でも、仮にゆかりさんがいなかったら、何をされたか、何を思われたか、見当がつかないほど酷くなっていた可能性は高い。
糸口が見つからない。
──あなたの目は透きとおる 暗い海の底で……
知ってる歌をゆかりさんが口ずさんだ。
すぐに一歩前に出た。
「……俺は、あんまり帰りたくないんだけど」
「……なんて?」
「あ、えと……歌詞の話」
ゆかりさんの足が止まった。
勢いで追い越してしまって慌てて振り返ると、彼女の袋を持っていないほうの手は、力無さげに服を掴んでいた。
「……ごめん」
いつもより若干トーンが低い。
「いや」
「わたし、分かってたのに……。
こうなっちゃうなら、最初から全部説明しておけば良かったよね」
「……」
「ほんとに……ごめん」
謝らせたいなんて思っていないし、謝られる謂れもない。
「さっき、本当は何をされたの?」
「……」
「言いたくないこと、なのは……分かってるけど」
「……うん」
「お兄ちゃんのこと、だよね?」
あの人たちの様子からして、日常的にあの話、もしくはそれに付随するような話をしているのは間違いない。
それなら知っていておかしくはないし、兄弟仲の問題ならなおのことだ。
或いは、あの場から退散した薫乃さんがゆかりさんにそれらしいことを言ったのかもしれない。
「……ゆかりさんは、父さんのこと嫌い?」
「……どうして」
「いいから。どう思ってるの?」
「どうって……もちろん好きだよ」
「じゃあ、俺と……姉さんのこと、可哀想って思う?」
「……そう言われたの?」
「……」
「……最低」
「……でも、だからなんだって話だよね……ごめん」
「……ちょっと待って。どうして謝るの」
「……」
自分でも、どうして謝ったのか。
その場でゆっくりと首を振ると、ゆかりさんは地面に袋を置いて、空を見上げた。
「いつも、なの」
「いつも?」
「うん、いつも。……集まってお兄ちゃんの悪口を言ってるの」
「……そっか」
「でも、今日はさすがにそんな話なんてしないって思ってて、ハルがいるし。
それに、楓が来たときは何ともなくて、それで……」
まあ、そうだよな。
同じ立場なら、俺だってそう思うだろう。
「ゆかりさんは、なぎさを遠ざけてくれたんでしょ?」
「……」
答えはない。けれど、俺の予想はきっと間違っていないはずだ。
「……俺もあの場からいなくする、ってのは難しいと思うし、仕方ないというか」
ちゃんと確認せずに来た俺が悪い。
「……うん」
「どうしてそうなったのか」
息を飲む音が聞こえた。
当初の目的はこれだった、躊躇いはあるが、ここまできたら訊いてしまうべきなのかもしれない。
「どうして父さんがそうなってるのか、訊いてもいい?」
「……」
「駄目なら、強要するつもりは全くないけど……」
正直に言うと、怖いのかもしれない。
そうでないならもっと単純に、俺が知りたいから話してほしい、と言えたかもしれない。
えっとね、話してもいいんだけど、と言われてすぐに身構えた俺に、ゆかりさんは戸惑っているように見えた。
「うん……大丈夫、だから」
「……実際に喧嘩しているのは見たことないし、わたしの想像の域を出ないけど、それでもいい?」
「大丈夫」
言い切った俺に安心したのか、ゆかりさんは一息ついて、歩きながら話そうと促してきた。
断る理由もなく、歩き出したゆかりさんの隣に並んだ。
「……多分、原因は嫉妬だと思うの」
「嫉妬?」
「うん……」
「それは、ハジメさんが、父さんに、ってこと?」
「そう」
「……どうして」
「お兄ちゃんは、頭がよかったの」
「……」
「それで、運動もできるし、人付き合いもいいし、学生の時は、男女問わず人気があった」
「……それで?」
「それに比べて、あの人は地元の高校出たっきり、仕事もまともにしないでふらふらしてて」
そうなのか。
「……お母さんとお父さんは体裁を気にして、自分たちの会社にあの人をねじ込んだんだけど、あんまり仕事もできなくて」
「……」
「長男よりも次男がほぼ全てにおいて優れてて、周囲の人からの期待も、親からの期待も、全部お兄ちゃんに向かってた」
お兄ちゃん。あの人。
十五も離れていると、そういう感覚なのだろうか。
いや、それを言えば父さんとだって離れている。
「わたしが小さい時はいつもお兄ちゃんが遊んでくれて、他にも勉強見てくれたりしてくれて……」
「じゃあ……どうして今は」
「……」
ゆかりさんは黙ってしまった。
なんとなく、いろいろなことが整理できていないとでも言いたげな顔をしていたように思える。
「……わたしがもしこれを話したら、ハルは、きっとものすごく困ると思う」
「それは……」
「この話は、本来わたしが話すべきことではないけど、でも、わたしが話さなきゃずっと知らないままで、
わたしは自分の発言に責任なんてとてもじゃないけど取れないし、聞いたら多分後悔すると思うの」
「……」
「それでも、続きが欲しい?」
俺が後悔する。
つまり、俺が訊いているのは既に兄弟の枠組みを超越したものであるということだ。
頭を巡らせてみても、それほどまでに惨いものは想像がつかない。
でも、知りたかったのは、こういうことで、そのためにここに来たんだ。
なら、ゆかりさんは知っているのだろうか。
少なくともあそこの集まりの人は誰一人として知らないはずだ。
父さんの母親、ばあちゃんですら、言葉の端々から察するに、何も知らない様子だった。
「……ちょっと、別の質問していい?」
「うん、いいよ」
「うちの両親は、どうして離婚したの?」
「……家庭を顧みないお兄ちゃんに、お義姉さんが嫌気をさした」
「……」
「──ってのが表向きの理由でしょう?」
まあ、そうだ。
他人から見れば合致しているし、整合性も取れている。
結果は円満離婚。財産分与も無かったらしい。
「でも、実際は他の理由がある」
「じゃあ、それは何?」
訊ねると時を同じくして、家の前に着いてしまった。
まだ収まることを知らない騒がしい声に、身体が縮こまるような思いが湧き出てくる。
「浮気、でしょ。……知ってるよ」
「……」
「どうして訊きたかったの?」
なんでもないように、彼女は言い切る。
「さっきの人たちは、一方的に父さんが悪いって詰ってたから」
「……そっか。じゃあ、知ってるのは、当事者二人と、わたしとハル、あとは」
「姉さんは知らない」
「……まあ、そうだよね」
ゆかりさんは父さんから訊いたの? と口に出す前に、彼女はため息をついた。
そして、困ったように口元を歪めた。
「それも含めて本当に知りたくて、ハルが後悔しても構わないなら、全部包み隠さず話すよ」
「……うん」
「みんなが寝静まる……二時半ごろかな。
ここから抜け出して、外に出てきて」
昔よく遊んだ広い公園で待ってるから。
それに頷くと、ゆかりさんは俺の袋を奪い取って、家の中に入って行った。
ゆかりさんは知っていた。
そして、やはり他の人は知らなかった。
約二時間後くらいだろうか、それまでに決めなければならない。
覚悟が必要だ。楽になるか苦しむか、言われてみないことには分からない。
──どうしようか。
◇
家の中に入ろうにも入れなくなって、少しの間だけ外に出たままでいることにした。
どうしてこうなってしまったのだろう。
ゆかりさんの態度と言葉からして、俺に詳らかに話すことは躊躇しているはずだ。
でも、彼女は言いたがっていたようにも見えた。
父さんが、そこまで周囲から期待を持たれるような人物だったというのは、あまりしっくりとは来なかった。
……いや、言われてみればそうかもしれない、と気付く程度ではあるとは思う。
まあ世間一般的な所のエリートで、学歴もそれなり、勤めている会社も広く知られている。
母さんは大学時代の知り合いで、息子の俺が言うのもどうなのかと思うけれど、容姿は整っている部類だと思う。
人付き合いは、あまり家族以外の人と関わっている姿をみたことがないからわからないけれど、そこまで悪いということはないだろう。
この場所にいる人たちを除いて。
ふと思い立って、ポケットから携帯を取り出して、電源を入れた。
着信が一件、姉からだった。
それは今から二十分前のもので、こんな時間に起きてるなんて珍しいな(家に一人でいる時なら)と考えて、かけ直すことにした。
数コール待つと、すぐに姉は電話に出た。
「……姉さん?」
『あ、もしもし』
「こんな時間にどうしたの?」
『……特に意味はないけど』
「はあ」
『ていうか、まだ起きてたんだ』
「それを言うならそっちこそ」
『私はもうすぐ寝るけど、ちょっと眠れなくて……』
「そう。多分もーちょい起きてるけど」
『……大丈夫?』
「え? どうして」
『いつもよりテンションが低いような気がしなくも……』
「……電話だからじゃない?」
『うん。えー、でも』
「姉さんは? 一人で寂しくて眠れないとか?」
『……はあ? いきなり何の話ですか』
急に敬語。
「眠れないって言ってたから、そうじゃないかなと」
『……いや、まあ、何となくハルの声が聴きたくなって。
それが寂しいって言うんなら、そうなのかもしれないけど』
「素直にそう言えばいいのに」
『……うん』
「……」
自分で言っといてなんだが。
急にしおらしくなるな、マジで。
『ひとつ、お願いがあるの』
「なに?」
『私のこと、名前で呼んでみてくれない?』
「どうして」
『いいから』
「はいはい、じゃあ……楓?」
『……ふっ。じゃあ、次は楓、頑張って、と言ってみようか』
「意味あるの、これ」
『あるよ、ものすごく大きな意味が』
なぜか自信ありげな口調だった。
「……か、楓、頑張って」
いったい何のプレイだ。
中途半端な恥ずかしさがこみ上げてくる。
『う、あー……。……いいねいいね、頑張れそう』
「……で、これをする意味は?」
『……何といいますか、私の身体が応援されることを欲していたの』
「なんだそれ」
俺は笑った。電話の向こうで姉も少し笑っているようだった。
『ゆかりちゃんは? 近くにいる?』
「ううん、今はちょっと外に出てるから」
『……うんうん。ま、ハルの声も聴けたことだし、私はもう寝ようかな』
「うん」
『ハルも、あんまり夜更かししちゃダメだよ?』
それじゃ、と言って電話を切られそうになる。
その時になって、俺も寂しいと感じたのかもしれない。
まって、と呼び止めると、姉は驚きもせずに『どうしたの?』と問いかけてきた。
「……姉さんは」
姉さんは……。
姉さんは、俺とずっと一緒にいてくれる?
なんて、言ってしまいそうになった。
もしかしたらこの先、家に一人なのが普通になるかもしれない。
姉さんではなくて、俺が。
さっき言われたことで、ずっと感じていた恐怖は少し大きくなって。
遠くに離れられることが怖くて。
自分のことは自分で整理しなければならない。
そう思ったばかりなはずなのに。
『……ねえ、どうしたの?』
不安感。でも、
「……はあ。やっぱり、俺も寂しいみたい」
『ふふ、……私の思ったとおり』
「適当言わないでもらえますか」
『えー、でも寂しいんでしょ』
「まあ、それは」
『明日には、うーん。今日か、帰ってきたら私に会えるじゃない』
だから、そんなに不安にならなくてもいいんじゃないの、と平然としている様子で言われた。
不安。なんて言葉は口に出してはいないが。
どこか他人事とも取れるような物言いだったが、俺にとっては、それだけで十分だったのかもしれない。
「……姉さんってさ」
『うん』
「俺のことめっちゃ好きだよね」
数秒間の沈黙。
あー、なんか、俺も眠いのかもしれないなー。
『うん……好き、だよ』
「……まって、冗談」
『いや、えっと……はあ……冗談かあ』
どんどんと音がする。
何やら慌てている様子だ。
「何をしているのかね」
『ちょっと、クッション殴ってる』
「……ごめん」
『……そんで、元気は出たかね』
ころころ態度が変わるらしい。
まあ、引きずられても困るからそれはそれでありがたいが。
「はあ、おかげさまで。ありがとう」
『うんうん、それは良いことだ』
じゃあ、と言って話を切りあげようとする。
そうしたら、今度は姉が『……あ』と小さく声をあげた。
『……なぎちゃんに夜這いしたりしたらダメだよ?』
「いや、そもそも寝る場所が」
違、わない?
『へー、やっぱり同じなんだ。
まあ、何というか、良い夜を?』
「ちょっと待て」
ぷくくっ、と笑い声が聞こえた。
茶化されていたみたいだ。さっきのお返しか?
『……まあ、ヘタレのあんたにそんなことはできないだろうけど』
だってほら、良い夜を、とか言われると、そういうことを想起するというか。
性欲。無いわけではない。
それに、相手はあのなぎさだし。
するか? しないわ!
ノリツッコミ。まったく、余計なことを言われたものだ。
「前も言ってたなそれ」
『そうだっけ?』
「うん、しかも一週前とか、それくらい」
『……だって事実でしょ』
「……まあ」
『ていうか、もう眠くなってきちゃった……じゃあね、おやすみ』
「えっ、おやす」
ぷつりと音が途絶えた。
おやすみくらい言わせてくれればいいのに。
ラインでおやすみとスタンプで送ると、すぐに同じようなスタンプが返ってきた。
そういえば、一緒に寝たいとか、こっちに来る前に言われたな、と思い出して、姉だって変わらないじゃないか、と思った。
帰ったら、ひとまずそれでいじり倒そう。
そんなことを考えるだけで、少しだけ気分が落ち着いた。
……落ち着いて、決めなくてはならなくて。
けれど、とっくに答えは決まっていた。
言われた時から、というよりは言われる前から。
少しでも何かを得られるなら、得ておくのがベターな選択で、納得できるなら、それが現状でのベストな選択だと思う。
家に入って二階に上がろうとすると、ゆかりさんに呼び止められた。
こっちに来て、と。
なんとなく気分が高揚していて、酒酔いではないような、ぽわぽわしたような浮遊感を得る。
途中で広間を覗くと、そのまま雑魚寝のようになっていて、飲んでいる人、タバコを吸っている人、寝ている人が入り乱れていた。
ここに戻るわけではないらしく、ちょっと安心して、ゆかりさんの後を付いて行った。
時刻は一時を回っていた。
◇
いいかげん起きているのにも慣れてきて、眠さは消え失せかけていた。
今まで何してたの? と問われて、姉さんと電話してたと答えると、
面白いものを見たかのように笑われた。釈然としない。
少し歩いた後に、襖の前で立ち止まる。
彼女は取っ手に手をかけて、何やら少しだけ逡巡したような顔をして固まった。
かと思ったら数センチ程襖を開けて、中を覗き出した。
「なにやってるんですか」
「……いや、いやあ……うん」
歯切りの悪い返事なこと。
「ハルが開けて」
「いいけど、誰がいるの?」
「うんと……料理作ったりしてた女の人たち? 薫乃さんとか」
「……で、なぜ俺が」
「いいから。どうぞ?」
しっしっ、早く開けちゃいなさいとでも言いたげなジェスチャーをされた。
変に探るのもアレなので、一思いにがらっと開けてみる。
がばっと、効果音をつけるならそんな勢いで抱きつかれた。
そんなことをまったく予期していなかったからか、体勢が崩れる。
「うおっ……と」
後ろに押し倒されるようなかたちになって、尻もちをついた。
にぱーとした笑顔。楽しそうに上気した頬。
……酔ってるな、こいつ。
「せんぱい、おかえりなさい」
呼び方がいつものに戻っている。
馬乗りになって抱きしめられる。
いろいろなものが当たるけれど、平常心、平常心だ。
「ゆかりさん、ちょっと助けて」
「あ、席はっけーん。すーわろっと」
スルー。閉められた。
目線を下げてなぎさを見ると、ぶすっとした拗ねたような顔をしていた。
「……どうしたの?」
「おかえりって言われたら、ただいまって言うべきだと思うのです。
ほら、言ってください」
「……ただいま?」
「よろしい」
抱きしめる力が一層強くなる。
小悪魔的な微笑み。この女、底が知れない。
そして、匂いを嗅ぐかのように顔を押し付けられた。
「あのさ……」
「なに?」
「ちょっと、退いてくれないかな」
「それって」
彼女はぷくーっと頬を膨らませる。
なんていうかこう、今は幼児退行しているのか?
「わたしが重いってことですか!」
「ちがうちがう……。床で背中がいたいといいますか」
「ふふっ……じゃあ、頭を撫でてくれるなら、いいですよ?」
「……中入ったらするから、ひとまず立ち上がろ?」
「えへへ……はーい」
なんだ、思ったよりもあっさり立ち上がった。
俺も立ち上がって、ふらふらして足元のおぼつかない彼女を支えながら部屋に入った。
空いている席はゆかりさんの隣で、なぎさと並んで座った。
「……あの、お酒飲ませたんですか」
俺は飲んでしまったけれど、彼女が飲むのはまた違うと思う。
別に彼女がいいと言うなら俺が干渉する必要もないが、今は預かっている身だ。
彼女の親御さんに任された以上、何か間違いがあってはならない。
「ごめんね、でも、飲ませたわけじゃなくてね……」
薫乃さんが申し訳なさそうに呟く。
「……未成年ですよ? こいつ。それに、もうベロンベロンに酔ってるみたいだし」
「こいつってなんですか」
「……ちょっと静かにしてて」
「なぎさ、とお呼びなさい。べ、べつに呼びたいならなぎちゃんでもいい、けど……」
キャラが定まってない、というかブレブレだ。
「なぎさ、静かにしてて」
「じゃあ、代わりに撫でなさい。言ってましたよね」
さっきから、命令口調が多くなっている。
隠れ女王様気質か?
仕方がないので頭を撫でると、彼女は、ぁー、とか、ゃー、とか鳴き声のようなものを発して、逆に落ち着かなくなった。
その姿はまるで犬のようだ。みたらし撫でたい。
「……そう言われてもさあ、飲んじゃったのは仕方がないんじゃない?」
「その発言、教育者としてどうなんですか」
「まあまあ、だって、なぎさちゃんが飲んだの、これだよ?」
コップを指さされる。
「このコップの……」
「……」
「半分くらい?」
なぎさが頷く。
えっと、マジか……。
「ここまで弱いのは初めて見たよ。
ほろよい三口かあ……」
「ゆかりさん、感心しないでください」
「……さすがに飲ませるのは悪いと思ったから、カルピスを出したのよ。
そしたら、間違えて別のコップのお酒を飲んじゃったみたいで」
薫乃さんは依然として申し訳なさそうだ。
そういう顔をされると、責めているみたいに感じられて萎縮してしまう。
「色は同じだしね」
それなら、まあ。
いや、でも……。
「……とりあえず、事故なら仕方ないですけど、俺も責任取れないですし」
「……うん、わかったわかった。ごめんね?」
「俺に謝られても……まあ、はい」
俺もさっきはかなり飲んだと思うけれど、気合と勢いでどうにかなっただけで、最後にはぶっ倒れてしまったし。
隣の彼女を見ると、いたずらっぽく笑って、テーブルの上のコップに手を伸ばした。
「もういっぱいのみます」
「やめとけ」
「どうして? こんなにぽわぽわして気持ちいいのに」
「だめなものはだめだ」
「せんぱいだって、たくさんのんだって聞きました」
「……あれは、止むに止まれぬ事情があってだな」
「じゃあ、わたしも今はそのやむにやまれぬじじょうってやつです」
呂律が回ってない。聞き取れるほどではあるけど、危ない気もする。
俺が返答に困っていると、なぎさはそのままグラスを掴んで口元に持っていく。
黙って見ていても埒があかないので、ばしっとコップを奪い取った。
「いたっ……」
「もう飲むな」
「うー……。せんぱい手きびしいです……」
拗ねたように言って、何を思ったか、俺の腕に手を回してきた。
「じゃあ、くちうつしでいいから、はい」
口をんー、と近付けてくる。
近い。
「ぶはっ……」
ゆかりさんが吹き出した。
「……ストップ、ちょい、待って」
「くちうつしー」
すんでのところで避けて、手のひらでガードすると、そのまま手に唇を当ててきた。
コップを彼女から見て遠くに置いて、反対の手で頭を撫でると、また少し落ち着かないながらも静かになった。
「あんたたち、いつもそんなやりとりばっかしてるの?」
と、薫乃さんがのたまえば、
「気になるー」
と、ゆかりさんが同調してくる。
仲良いな、この人たち。
悪ノリだからか? すごく困る。
「なわけないでしょ」
「それにしては、随分と好かれてるんじゃない」
「うんうん、かわいい酔い方だし」
「それはゆかりがちょっと飲むだけで気持ち悪くなっちゃうだけでしょ」
「いいなー薫乃ちゃんは、お酒強いし」
そのまま二人で話しててくれ、と思ったが、そうはいかないのはあたりまえで。
「キスはもうしたの?」
「してない」
「な?」と、同意を求めて彼女を見ると、赤い顔で首をかしげた。
「キス、キス……。ありますよ?」
「は」
「なんだー、あるんじゃん。嘘つかなくてもいいのに」
このこのー、と隣から脇腹をつつかれる。
本気で記憶にない。
「まじで覚えてないんだが」
「うーわー、さいてー」
「……ちょっとまって、混乱してる」
もう一度なぎさを見ると、ぺろっと舌を出してにやりと笑った。
「しちゃえば? くちうつしくらいならいいんじゃない?」
「いや、こういうのって意外と記憶に残ってて朝後悔するやつじゃないの」
「ワンナイトラブ?」
「いや言い方でしょ」
勝手な人たちだ。
「いや、本当に、キス自体まだというか。
誰ともしたような記憶がないんだよ」
俺の必死の訴えに、ゆかりさんは口元に手を置いて考えるような仕草を見せた。
「えー、でも昔はよくしてたじゃん」
「昔?」
「うん、ちゅっちゅって。見てて微笑ましかったしー」
何も覚えていない。
するって言ったって相手は限られてくるけれど。
「誰と?」
「楓」
「は? え?」
「薫乃ちゃんも見たことあるよね?」
「あるある」
待て。ちょっと待て。
昔、覚えてないくらい前には違いないが、実の姉にだぞ。
仲は悪くはなかったけど、そこまで良くもなかったし。
姉の顔が浮かぶ。薄めの唇。
いや、なんて想像してるんだ俺は。
「まあ、楓にはほっぺだったけどね」
なんだ、ほっぺか。
……て。
「ほっぺでも十分問題だと思うんだけど」
「昔は肉食系だったんじゃない?」
呆れる俺をよそに、二人は笑う。
「なぎさちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうって……」
そういう問いかけは、後で気まずくなるからやめてくれよ、
と思って隣を見ると、彼女は俺の腕にしがみついたまま目を閉じていた。
耳をすますと、すーすーと寝息が聞こえる。
……寝ちゃったか。
いや、寝てくれて助かったかもしれない。
「どうも、思ってはないけど、よくわかんない……」
「何がわからないの?」
薫乃さんが食いついてきた。
ゆかりさんは半分冗談、下手すりゃ九割くらい冗談で言ってきたんだろうけど、薫乃さんの瞳は真剣みを帯びていた。
その形相に、ゆかりさんも少し戸惑ったような雰囲気で俺をちらりと見た。
「……それも、あんまりよくわからない。
わからないのがわからないというか、無理にわかろうとすると、逆にいろいろ見えなくなってしまう気がして……」
「そっか……」
「はい」
納得しない様子で、薫乃さんは何度も頷いていた。
どうして、こんなことを訊いてきたのだろうか。
「それにしてもさ……」とゆかりさんが口を開く。
「なぎさちゃん、かわいいよねー」
「……」
「寝顔かわいい、写真撮りたいくらい」
「撮ればいいんじゃない?」
「えー……じゃあ、失礼して」
パシャリと一枚だけ写真を撮った。
ほんとに撮るんだ。
「ていうかさあ、ちーちゃんの写真ないの?」
「ちーちゃんって?」
「……千咲ちゃん? ほら、ハルの家の近くの」
「ああー! 昔こっちに遊びに来たわよね」
「で、ハル。持ってるの?」
どんな魂胆が、とは思ったけれど、
成長した姿を見たいとか、そんなもんだろ。
「あるけど……ちょっと待ってて」
スマートフォンを操作して、最近撮った写真を見せた。
千咲が勝手に撮ったものだが、多分よく撮れてると思う。
「えー、ちっちゃくてかわいいー。
……今も、同じ高校なんでしょ?」
「うん」
「なぎさちゃんと、ちーちゃん、そんで楓も。
かわいい子しか周りにいないじゃん」
「……そう言われてみれば、そうかも?」
「……ハーレム?」
「いや、姉さんが入るのはおかしい」
「じゃあ他の二人は……ってこと?
ハルくんもやりますなあ……」
「……あの、違う。そんなの考えたこと、ないし……」
「あー! 動揺してる動揺してる!」
「……」
ゆかりさんもなかなかの悪酔いだ。
正面でにこにこしている薫乃さんもお酒強いなら止めて欲しいくらいだ。
それから、主に千咲となぎさのことでいじられたり、朝に(盗)撮った写真を見られたりしていると、薫乃さんが立ち上がった。
どうやら、向こう側の席で飲んでいた人たちを寝所へ連れて行くらしい。
通り過ぎる女の人たちに、おやすみなさい、という言葉とともに、温かな目で見られた。
俺もおやすみなさい、と返すものの、ちょっとだけ猜疑的に見てしまった。
そういうわけで、部屋に三人になる。
「寝てるんだし、ちゅっとしちゃえば?」
「またそう言って……」
「ごめんごめん。冗談だからさ、そんな怖い目で見ないでって」
けたけた笑われる。
怖い顔になっていたのか、全く気がつかなかった。
「……ねえ、さっきの話、聞くよ」
「さっきの……うん。なら、先にシャワー浴びてきなさい。
わたしはなぎさちゃんをお風呂に入れてくるから」
なぎさは寝ているし、他に誰もいないし、ここでもいいのでは。
そう思ったけれど、なぎさをこのまま寝かせるのは申し訳ないってことか。
「……わかった、ありがとう」
「うん、じゃあ背負いますかー」
彼女は立ち上がって、なぎさを引っ張り上げる。
するりと簡単に腕が抜けて、少し名残惜しさのようなものを感じた。
「……またあとでね」
ひらひらと手を振って、ゆかりさんは部屋をあとにした。
しばし一人で部屋にいて、空き缶やコップを中央に集めていると、薫乃さんが戻ってきた。
「あ、後片付け、しててくれたんだ」
「うん、軽くだけど」
「ありがとう」
「いえいえ……」
缶に少し残ったお酒を「飲む?」と言われた。
間髪入れずに断ると、薫乃さんがそれを飲んでいた。
「……さっき、ごめんなさいね」
「……さっき?」
「あの人が、……その、あなたのお父さんを、悪く言ったとき」
「……んと、まあ、大丈夫ですよ」
大丈夫ではないけど、気にされるのは気分が良くない。
「そ、っか。それなら、いいんだけど……」
むしろ、薫乃さんの様子がおかしかったようにも思える。
「あのさ……」
「はい」
「……お父さん……元気してる?」
「父さん、ですか……。多分、元気だとは思いますよ」
「そ、そっか……」
少なくとも身体面の異常はないだろう。
予想で言ったことだったけれど、彼女はほっとしたようだった。
それからは、会話らしい会話もなく、二人で黙々と片付けを進めた。
◇
アルコール。風呂。
余計にのぼせてしまっているような気分だ。
ふと思い返すのは、あの夜のこと。
千咲に対して、何も言えなかった夜のことだ。
離れて行って欲しくはない。
でも、近すぎても、距離感を間違えてしまう。
練習をちらっと見ただけであんなに動揺するのだから、遠征中の試合に影響が出ていないだろうか?
もし出ているとしたら、どうにも申し訳が立たない。
けれど、千咲はまた、なにもなかったかのように接してくるだろう。
その優しさが、どんどん蓄積されていって。反対に、千咲はストレスを溜めているかもしれない。
考えれば考えるほど、自分が最低に思えてくる。
寝る場所はやはり同じだった。
隣で寝るとこの前みたいなことが起きかねないから、懸命に壁の方へ布団をずらした。
玄関に向かう際に、広間の前を通ると、まだ少し話し声がした。
電気は薄暗くついていて、おそらく大半の人は寝てしまっているのだと思う。
外に出て、待ち合わせの場所に行くと、ゆかりさんはもうすでにそこにいた。
「やあやあ」
隣に座るように促される。
どこの公園にでもありそうな、木製の長いベンチ。
「ごめん、遅かった?」
「ううん、わたしも今来たとこ」
「……初デートみたいな会話だね」
「まあ、そうかも」
ミネラルウォーターを手渡された。
外気は蒸し暑さを感じる。
「……続き、聞くよ」
「うん……。どこまで話したっけ?」
「うちの両親の、離婚の原因について」
「うんうん。わかった、じゃあ、話すね」
ちょっと怖かったけれど、気にせずに頷いた。
「まず、お兄ちゃんと薫乃ちゃんがどういう関係か知ってる?」
「……お兄ちゃんが、父さんのことなら、何も知らない。
薫乃さんもこっちの人ってことぐらいかな……?」
「二人はね、同い年で、幼稚園から高校までずっと一緒だったんだよ」
「そうなんだ」
「それで、二人はすごく仲が良くて、わたしもよく三人で遊んでもらってた」
「この話、関係あるの?」
「うん、ちゃんと関係あるよ。でね、わたしにとっては二人は、優しいお兄ちゃんとお姉ちゃんだった」
「……そっか」
「話は戻るけど、お兄ちゃんが結構もてたって話したじゃない?」
「うん」
「でも、特定の相手は作らなかったし、全部断ってた。
理由は簡単で、薫乃ちゃんのことが好きだったから」
「……」
父さんが? 薫乃さんを?
いや、それは……ありえないとは言えないけれど、考えてみたこともなかった。
「薫乃ちゃんも薫乃ちゃんで、お兄ちゃんのことを好きだったんだと思う。
今更確認なんてできないし、あの頃はわたしも小学生くらいだったから、想像にすぎないんだけどね」
「薫乃さんも……」
「けれど、両想いなのに、お兄ちゃんも薫乃さんも告白したりはしなかった。
何も言わなくても近くにいるような関係で、わたしも二人はずっと離れないって思ってた」
「……どうして?」
「お兄ちゃんは、多分怖かったんだと思うの。
一旦付き合っちゃって、ちょっとした喧嘩とかで亀裂が入ったら、今まで通りなんて言えなくなるじゃない?」
幼馴染。距離を詰めるのが怖い。
「薫乃さんのうちと、かなり前から親交があったのも、原因の一つだと思う」
「……」
「お兄ちゃんは、そっちの大学に進んだじゃない?」
「うん」
「ここらへんの高校は、お世辞にも大学進学するような高校じゃなくて。
お兄ちゃんは勉強ができたから、そっちの大学に行ったけど、他の人とは離れ離れになっちゃって」
「……そうなんだ」
「お兄ちゃんは、やりたいことがあるから、って言ってた。
そこでしかできないことだから、離れても仕方がないって」
「……」
「でも、うちの両親は、大学を出たらこっちに戻ってくるって思ってて、
そのまま会社を継いでくれるって信じてたみたいなの」
「それが、期待されてたってこと?」
「うん、けどね、お兄ちゃんはそんな気はなかった」
「……まあ、そうだろうけど」
「お母さんとお父さんは、どうにかしてお兄ちゃんをこっちに連れ戻そうとしたの」
「仕送りを止めるとか?」
「ううん。お兄ちゃんは、バイト掛け持ちして、自分でお金を稼いでたから」
「……それって、つらくない?」
そんなの、聞いたことがない。
「つらいに決まってるでしょ。でも、お兄ちゃんはそうしてた」
「じゃあ、その手段って?」
「……こればっかりは、一番最低な方法だと思うの」
手段を選ばないとして。
どうにかして連れ戻す。ここにしか無いもの。ここにしかいない人。
「……薫乃ちゃんをね、その手段に使ったの」
「それって……」
「そう、こっちに帰って来たら嫁に出すとかなんとか言って。
お兄ちゃんの気持ちは、みんな薄々気付いてたから」
悪趣味すぎないか、それは。
人の気持ちを知ってて、それを大人の事情で使うなんて。
「予想だけど、お兄ちゃんは、ちゃんと仕事について稼げるようになったら、薫乃ちゃんに気持ちを伝えようと思ってたんだと思うの」
「……」
家にとらわれずに、か。
そういうところが父さんらしい、と思ってしまうのは何故だろうか。
生まれ持ったものではなくて、体得したものに意義がある。
それを示したかったのかもしれない。
「お兄ちゃんは揺れてた。ずっと好きだった子を人質に取られて、それで、その頃は特に用も無いのにうちに頻繁に帰ってくるようになってた」
「でも、薫乃さんを呼ぶっていう選択肢はなかったの?
その……駆け落ち、って言うと聞こえはヘンかもしれないけど」
ありそうな考えを口にしたが、ゆかりさんは首を横に振った。
「……ないよ。お兄ちゃんの性格なら、そんなリスクのある行動に出るはずない」
「まあ、そうかもしれないけど……」
言った自分が何だが、俺だってそうすると思う。
リスクヘッジは常に頭に置いておかなければならないもので、
薫乃さんのことも考えれば、ここを捨てるのはあまりにも悪手すぎる。
「でも、薫乃さんは何も言わなかったの?」
「……うん。言いなり、これは仕方のないことなんだけどね」
「そうなんだ」
「……でね、そうこうしているうちにあの人が余計に話をこじらせたの。
わたわたしてるお兄ちゃんを見て嬉しそうにしてて、わたしは本当に嫌だった」
話をこじらせる。
父さんへの劣等感。
薫乃さんが好きな父さん。
……傷付けたいなら、そこを引き裂こうとするのかもしれない。
「……今は、ハジメさんが会社を継いでるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、ハジメさんが継ぐって言って、薫乃さんもろとも持ってったってこと?」
「……まあ、結果的に言えば、そうなったね」
「……」
「ほんとはもっといろいろあったのかもしれないけど、わたしは全然わからなくて。
当時の断片的な記憶と、他の人から聞いたことでしか話せないけど……」
「……辻褄は合ってるってことね」
「うん」
どうにも、他人事には思えない。
身内のことだというのもその理由としてあるかもしれない。
ゆかりさんが、夜空を見上げた。
暗い雲が流れて、月が顔を見せていた。
こんな夜にね、とゆかりさんが口を開く。
「……ある時ね、お兄ちゃんが、夜に泣いていたことがあったの」
「……」
「その日は、わたしだけが家に留守番で、他の四人はどこかに行ってて。
夜にお兄ちゃんだけが家に帰ってきて、たまには一緒に寝ないか? って言われて」
「……うん」
「お兄ちゃん、ずっと泣いてた。
声はあんまり出てなかったけど、鼻をすする音とか、背中が小さく戦慄いてる様子とか、鮮明に覚えてる」
「……」
「わたしはそんなお兄ちゃんを見て居ても立っても居られなくなって、気付いたらお兄ちゃんを慰めようとしてた。
でも、全然効果なくて、わたしもしばらくするうちに寝ちゃってた」
ゆかりさんは、中学生かそこらの歳か。
「……あとで知ったんだけど、その日に、あの人と薫乃さんの結婚話がまとまったらしいの」
「じゃあ、それで……。
いやでも、それじゃあ父さんは」
言いかけた俺を、ゆかりさんは首を振って制した。
「けどね、次の日にはお兄ちゃんはけろっとしてて、向こうに帰って行っちゃった」
それで、その半月後に、本当に二人は結婚したんだよ。
それが、ここの人たちとの不和の原因なのか?
つらい話だ。俺なら折れてしまうかもしれない。でも、それだけだとは思えない。
顔を合わせたくないとは考えるかもしれないけれど、割り切ろうとすれば、なるべく薫乃さんと鉢合わせないように努めれば。
「それから……他に何かあったんじゃないの」
「うん……。やっぱり、そう思うよね」
小さく息を呑む音が聞こえた。
「最初のうちは、わたしが会いたいから帰ってきてってよく言ってたの。
それで、本当に三ヶ月に一度くらいは帰ってきて、遊んだり宿題を見てくれたりした。……二人になっちゃったけど」
「……」
薫乃さんは、当然といえば当然か。
「……お兄ちゃんと薫乃さんは顔を合わせても険悪になったりしないで、事情を考えればあたりまえだけど、普通に接してた」
「うん」
「でも、でもね……。あるときを境に、お兄ちゃんは一切帰ってこなくなっちゃったの。
わたしがお兄ちゃんの携帯に電話したら出てくれるけど、
他の人とは音信不通で、『俺と電話したことはお母さんにも言っちゃダメだぞ?』って言われてた」
「……」
「それで、次に帰ってきたときに女の人を連れてきたの」
「それは……」
「うん。ハルのお母さんだよ」
「この人と結婚するので、って。
それだけうちの両親に言って帰っていって」
……そうだったんだ。
だから、式も挙げず向こうの両親と小さなパーティをするに留まったのか。
「それから、お兄ちゃんは少しずつ集まりに顔を出すようになったの。
楓が産まれて、一年後にハルも産まれて、よくこっちに連れて来てた」
また悪いことばかり考えてしまう。
もしかしたら、父さんは薫乃さんを諦められていなくて。
それで。それで……。
「……それってさ、つまり」
「違うよ。それだけは、絶対に違う」
嫌な勘ぐりですらも、全て察してくれた。
口に出すのも嫌なことだったから、少し助かった。
「どうして、そう断言できるの?」
「……お兄ちゃんは、そんな感情のまま人と付き合ったりはできない人だから」
「それは、ゆかりさんの思い込みじゃないの?」
「……っ。そんなわけ……お兄ちゃんが、そんな」
「ごめん、責めるとかそういうつもりはなくて」
「うん……予想、だよね。予想にすぎないんだよね」
「……でも、わたしはそう信じたいの」と、ゆかりさんは消え入るような声で呟いた。
「俺だって、できることなら信じたいけど、確証がないぶんにはどうしても疑ってしまうと思う」
「……そう、だよね」
彼女の声はどんどん小さくなっていく。
俺に聞いたら後悔すると言ったのも、自分もダメージを受けると思ってたからの発言だったのかもしれない。
やっぱり、責めているみたいだ。
ゆかりさんだって、十何個も上の人たちには訊こうにも訊けないだろうし。
薫乃さんはもちろん、掘り返されたくない傷を負った父さんになんてもってのほかだ。
なら、ここでは。
「……けど、予想でもいいから、知ってることは全部話してほしい」
俺の今までの発言と整合性のない物言いに、ゆかりさんは目を丸くした。
そしてすぐに小さく咳払いをして、俺の方へ向き直った。
「えっと……そのね、お兄ちゃんが来なくなった原因についてなんだけど」
「うん」
「……みんなの前で、今日ハルにしたみたいに酷い言葉をぶつけたんじゃないかな」
「それは……あるかも、だけど。
俺が思ったのは、ハジメさんが、薫乃さんに父さんを悪く言うようにしむけた、ってのもありえるかなって」
「まあ……なくはないね。あんまり考えたくないことだけれど、可能性としては十分ありえる」
ずっと劣等感を感じていた弟の好きな人を奪った。
でも、当の弟は全然気にしていない様子で、落ち込む姿すら周囲の人に見せなかった。
そうしたら……。
おもしろくない、と思うかもしれない。
何かをして、もう一度ダメージを与えよう、と思うかもしれない。
ただの想像にすぎないけれど、辻褄は合っているし、あの薫乃さんの妙な言動にも納得がいく。
「……ハルにね、お願いがあるの」
腕を、掴まれた。
軽々しく訊いてはいけないような雰囲気に、身体が強張る。
「……こんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど、でも、お願いしたいの」
「……うん」
「お兄ちゃんを、助けてあげて欲しいの。
わたしじゃ、きっと駄目だから……」
「ゆかりさんが駄目なら、俺だって……」
「……ううん。今お兄ちゃんに一番近いのは、楓とハルだから。
ハルからの言葉なら、もしかしたら、響くかもしれないって、そう思うんだ」
ゆかりさんは今にも泣き出してしまいそうだ。
なんで、どうして、兄に対してそこまでできるのだろうか。
「実は……俺も、ずっと考えてた」
「……うん」
「父さんとは、いつか話さなきゃいけないときが来るって。
母さんのこと、姉さんのこと、俺のこと、それから、今後のことを」
いつか。不確定の未来。
今まで逃げていて、遠ざけてきて、その清算が今来ているのだと思う。
「そっか……」
「でも、ゆかりさんが求めるような成果を得るかどうかは、全く保証はできないし、悪化することだってあるかもしれないし」
彼女は、浅く唇を噛んだ。息が漏れて、目を伏せて俯いた。
哀しげな表情に変化する前に、俺はもう一度「でも」と言葉を続けることにした。
「俺は、父さんと二人で話をしてみるよ。
そんで、どんな結果になったとしても、ゆかりさんには必ず報告するから」
約束、と言って小指を出すと、照れたように笑って、彼女も小指を出してきた。
「こういうところ、お兄ちゃんそっくり」
「そうなの?」
「うん……昔はよく、こんなことしてもらってたから……」
長い時間、話していたのだろうか。
東の空が少し明るみ始めていた。
ゆかりさんが、元気よく立ち上がった。
そして、んーっと軽く伸びをした後に、ぱんぱんと顔を叩いた。
「明日……。今日、起きたらさ、海の方に行ってみようよ」
「……海?」
「うん。あの人たちに会うの、気がすすまないでしょ?」
「まあ、それは……確かに」
「それに! なぎさちゃんとデートっぽいことだってしたいでしょ?」
「はあ……。いや、どこか連れてってくれるなら嬉しいですよ」
頑なな俺の態度に少しばかりの面白さを感じたのか、ゆかりさんはにこりと笑って、人差し指を俺の前に突き立てた。
「あんたも、決めなきゃね」
「……? 何を?」
「……それはずうっと、考えときなさい」
「意味わからないんですけど」
もっとわかりやすいように説明を求めても、ゆかりさんはゆっくりと頷くのみだった。
「じゃあ、戻ろっか。ちゃんと疲れとれるように寝なさいよー?」
「わかってるよ」
少しだけ、肩に乗っていた荷物が軽くなったような感覚になった。
それは不透明で、不明瞭で、まだ実体すら掴めていないほどのものではあったけれど、
確かに、はっきりとした感覚で、自分のなかの何かが動き出すのを感じた。
◇
長い雨が晴れたときのような気分とは裏腹に、夢見は悪かった。
◇
ゆさゆさと軽く揺すられて、目が覚めた。
まだまだ寝足りなく重い瞼をこすりながら上半身だけ起こすと、枕の向こうになぎさが座っていた。
「おはようございます」
「うん、おはよ」
ボサボサした寝癖を手で直しながら彼女を見ると、昨日とは違って髪はいつものポニテで、眼鏡を掛けていなかった。
「……てか、なんでそこに座ってるの。
布団、もう無いけどあっちにあったじゃん」
「えーと、うなされてたので?」
「そうなの?」
「そうです、ちょっと前ですけど」
「……今日はゆかりさんがどっか連れてってくれるって言ってたけど、会った?」
「はい、それではるくんを呼んでこいと指令を出されました」
呼び方も、今日で最後か。
酔ってるときは先輩呼びだったし、その方がこっちも慣れてるけど。
「いま何時?」
「九時半です」
「はえーよ……」
ここに戻ったのが五時頃だったから、四時間と少ししか寝れてないじゃないか。
身体はところどころ痛むし、胃の不調はまだ治っていない。
「どれくらい寝たんですか?」
「四時間と少し」
「ええ……。そんな夜中まで何してたんですか」
「まあ、ちょっといろいろやることあって」
「そうですか。もしかして、私もそれくらいの時間に寝たんでしょうか?」
普通に会話できているから、なぎさは夜のことを覚えていないのか?
さっきから様子からして、一切覚えていないみたいだから、質問されてもお茶を濁すのが良いだろう。
「一時には寝てたと思う。めっちゃぐっすり寝てたよ」
彼女は考え込むようなポーズをとる。
「あの、私……夜の記憶が、全くないんですよ」
「……ゆかりさんに訊いてみたら?」
人任せ。あの人だって変なことは言わないだろう。
「……あ、はい。そうしますね」
電話が鳴って、スマートフォンを手に取った。
充電をしないまま寝てしまったからか、今にも消えてしまいそうなくらいバッテリーが減っていた。
『はやくしなさいよ』
「今起きたんだけど……。ていうかはやすぎ」
『外で待ってるからね』
「ゆかりさんだって、全然寝てないでしょ。運転とか大丈夫なの?」
『大丈夫よ』
「……あい。できるだけはやく行くから」
電話が切れた。
「私、先に下行ってますね」
「うん」
……あ。
立ち上がる彼女を、ちょっと、と言って引き止めた。
「さっきさ、近くにいてくれたんだよな?」
「ま、まあ……はい」
「ありがとな」
「……いえいえ」
彼女は、両手を胸の前に出して、照れたようにはにかんだ。
◇
昨日のように、車には後部座席に一人で座った。
暇つぶしに使えるものを持ち合わせていなかったから、そのまま目を閉じることにした。
寝る前のゆかりさんとの会話を何度か反芻した。
ゆかりさんは比較的落ち着いている様子だった。
なぎさと他愛のない話をする姿は楽しそうで、俺もできることなら話にまざりたかったけれど、いかんせん眠気には勝てない。
耳をすますと、二人は好きな歌手の話をしているようだった。
それから体感時間で数分間くらい眠ったあと、再びなぎさに起こされた。
ゆかりさんはスーパーに朝食を買いに行ってくれているらしい。
どうしてあの人はそんなに元気があるのだろうか。
「今日どこに行くかって何か聞いた?」
「あー……えと、泳ぐって言ってましたよ」
「俺たち水着持ってなくね」
「冗談です」
冗談か。
「で、ほんとは?」
「とりあえずドライブして、それから考えるって言ってましたよ」
「……つまり、ノープランと」
「そうですね」
「……でもまあ、今日は暑いけど昨日より涼しそうだし、どこに行っても楽しめるかもな」
「……ふふっ、そうかもですね」
「そういや、昨日の夜の話、ゆかりさんとしたの?」
「はい、しましたよ」
「まあ、なぎさはお酒飲んじゃダメだな」
そういう話はしただろうと思って、何も考えずに口に出した言葉に、彼女は驚くような反応をした。
「あれ、私……お酒飲んだんですか?」
「……聞いてないの?」
「……えと、すぐに寝ちゃったとだけ。
でも……あれ? 私、お風呂に入ったみたいだし」
そう言って、自分の身体を撫でまわす。
おのれゆかりさんめ……。
「少し飲んで、すぐ寝ちゃったんだよ。
で、多分ゆかりさんにお風呂入れてもらったんだと思うよ」
「うわー……まじですか」
なぎさが顔を下に向けた。
「……あとでお礼を言わないと、ですね」
「うん」
それから適当にごまかしていると、ゆかりさんが車に戻ってきた。
「……さて、じゃあ行こっか」
俺の隣に置かれた袋は、なかなか大きなものだった。
「まずは、どこに行くの?」
「わたしの家」
◇
海岸沿いに立ち並ぶマンション群。
さっきまで居た家からそう遠くもないが、地名が違くなっているくらいの距離のところに、ゆかりさんの住んでいる場所があった。
「おじゃまします」
中に入る。
「朝ごはん、わたしが作るからー。
あ、適当に座ってていいよ」
「はあ……。てか、一人暮らししてたんですね」
「そうなのよ、去年の暮れからね」
「私もお手伝いしましょうか?」
「いいのいいの、座ってて?」
そう言われて、リビングの床に腰をおろした。
手伝いたがるのは、なぎさの性分らしい。
「テレビとか見たかったら見てもいいよ」
「見る?」
「じゃあ見ますか」
テレビをつけると、結構人気のあるお笑い芸人(この地方の出身らしい)が、県の有名な観光スポットを周るロケ番組がかかった。
それを見つつ、部屋の中を見渡す。
……入るときに思ったけれど、なかなかに広い。
洋風のインテリアに、水色や薄いピンクの小物が並んでいる。
テレビもそれなりに大きいし、土地的にも部屋の賃料は高そうだ。
とまあ、意味もないような考察をしている途中も、なぎさはテレビに夢中だった。
好きな芸人らしい。俺も小学生か中学生のときにハマっていたから、その気持ちがよくわかる。
城跡や自然公園、歴史あるお寺など、開始から他県住まいでも聞いたことのあるようなスポットが続く。
ぽけーっと見ていると、ゆかりさんがお皿を持って戻ってきた。
そのまま三人で朝食を食べて、どこに行くか決めよう、という話になった。
「とりあえず、海を見よっか」
やっぱり、この人何も考えてないんじゃん。
「ここからでも見えるじゃん」
「じゃあ、ベランダに出よう」
ということで、外に出てみた。
「綺麗でしょ? ここから見える景色」
「太平洋! ですね!」
「俺らが住んでるところも太平洋だけど」
「もー、はるくんはつまらない人ですねー」
「いろんなとこがあるけど、ここが一番綺麗だと思うよ」
まあ、たしかに。浜風もひんやりとしていて気持ちがいいし。
「そうだ! あそこに停まってる遊覧船とか乗ってみたい?」
「……どっちでも」
「私も、どっちでも」
「う、微妙な反応だ……。ま、まあ、とりあえずぶらぶら歩いてみよっか」
◇
それから、テレビゲームをしたり、クーラーで涼んだりして、午後一時に差し掛かったところでゆかりさんの家を出た。
筐体は古き良きゲームキューブで、スマブラDXとエアライドがあったのでそれをプレイした。
わいわいと楽しめた(別にここまで来てやることではないと思うけれど)が、ゆかりさんが超強かった。
思い返しても謎なくらい強かった。吉野さんとタメ張るくらいの強さ。コウタなんて話にならない。
正直一位を争うレベルで弱いと思っていたクッパで3タテをされたときは、思わず感心してしまった。
カービィは、蘇る0の記憶。
ピコーン、テロテロテロテロ……。
……て、それはスーファミか。
ゲーム中の雑談の中で、帰りは家まで送ってくれると言われたので、素直にお世話になることにした。
すぐ近くにあるローカルな駅には大勢の人がいて、ここが人気の観光地だということが伺える。
店頭販売の串ものを三人で買って、それをつまみながら歩く。
牡蠣食べ放題二千円というのもあったが、どうにも食あたりが怖いのでスルーした。
橋続きの島に入って、緑生い茂る自然と、きらきらと透き通った海を見た。
太陽に照り映える白い鳥が多く飛んでいて、なぎさは海をバックに鳥の写真を撮っていた。
「鳥好きなの?」
「ハトは嫌いです」
「カラスは?」
「好きではないです」
「ツバメは?」
「仲良くなれそうです」
まあ、わからなくもないけど。
そのあと、海産物の専門店街にある小洒落たカフェに入って、二階にあるバルコニーで休憩することにした。
俺はアイスコーヒーだけだったが、二人はパンケーキやらドーナツやらを食べていた。
SNS映えしそうなポップな店内で、多くの女の人が頼んだものをかざして写真を撮っていた。
そのあと、焼肉が食べたいと突然言い出したゆかりさんに付いて行って、炭火焼肉のお店に入った。
時間はちょうど昼過ぎで店にいる人もそう多くなく、少しおかしなテンションで肉を焼くゆかりさんにいろいろ食べさせられた。
……さっきから食べてばかりだ。
食べ終えたあと、ゆかりさんは「もう、限界……」と言って一人で車に戻っていった。
眠気に勝てないらしい。というか、昨日から殆ど寝ていなかったみたいだ。
その場に取り残されたなぎさと俺は、ふらふら歩くゆかりさんに付いていくと、「三時間だけ寝るから、それまでにここに戻ってきてね」
と、眠たげな声で伝えたっきり、後部座席に靴を脱いで横になってしまった。
「これから、どうしましょうか?」
「なにか考えてる?」
「いえ、なにも」
「……まあ、さっき通らなかった方に行ってみるか」
「そ、……そうしますか」
二人っきりになって、急に、不安感が押し寄せる。
隣の駅では、海岸線を走ることができる自転車(ロードバイク)の貸し出しをしている店があって、
どこかへ動くにも都合がいいし、なぎさもそれでいいと言うので、戻る時間までレンタルをした。
なんとなく、俺から話を振らなければいけないような気がした。
「女の子ってさ」
「……はい? いきなりどうしたんですか?」
風を切りながら、それほど速くもないスピードで並走する。
「スカートで自転車乗るときってサドルに直で乗るんだっけ」
「……んと、私はスカートであまり乗らないですけど、乗るときは折って乗りますよ」
「へー」
「どうしてそんな質問を?」
「……なんとなく?」
「せくはら?」
「違うわ」
海を長い橋から見下ろした景色はかなり綺麗だった。
透き通った青。水上では遊覧船やボートが通っている。
ガードレールに自転車を傾けて、写真を撮ってみた。
なぎさも俺を真似て写真を撮り出した。最終的に並んでピースをさせられた。
道の果てには、閑散とした市街地があって、「適当に進みましょうよ」というなぎさの言葉の通り考えずに自転車を漕ぐと、自然公園に突き当たった。
そこは、適当に来たところだったのに、どこか見覚えがあるように思った。
「……入る?」
「え……っと、じゃあ、はい」
ちょっとぼーっとしている? 気のせいか?
「疲れた?」
「あ……はい、少し?」
なぎさは言いながら首をかしげた。
それほど距離は無かったけれど、俺ら帰宅部だし、仕方ないよね。
俺も少し疲れた、すれ違うときに物凄い速さで消えていったガチな服装のお兄さんたちはなんなんだろうか。
公園の中心地では、何かのフェスをやっているらしく、大音量で音楽がかかっていて、
行ってみようとも考えたけれど、ひとまず、入り口から少し歩いたところにあるベンチに座ることにした。
飲み物買ってくるから、と言って自販機のありそうな方向へと小走りで向かった。
ここまできて、やっぱり申し訳ないような気持ちになる。
さっきから、ただ動いてるだけだ。楽しみもなにもない。
彼女はつまらないとは言わないだろうけれど、かといってこのままでいたって特に何もすることもない。
居るだけで楽しいので、と言われたことを思い出す。
俺だってそう思う。……思うけれど……。
ここにいる期間は、今までとは違って、なぎさが女の子に見えるというか。
いや、言わなくても性別は女の子で身体つきだって女の子らしいけど、立ち振る舞いとか、そういうものに、女の子っぽさを感じる。
別に、夜の酔った姿がどうだったというわけではなく、呼び方とか、口調とか、甘えてくるような態度とか、挙げていけばいろいろあるが、
その変化が、俺をそういう気分にさせているのかもしれない。
格好つけたくなるような。
というと、かなり語弊があるかもしれないが。
たしかに、朝から全てがノープランだった。
でも、どこかに動いたり何かを食べたりと、誰かが行動を決めてくれるのは、俺からしてみれば好都合だった。
戻ると、なぎさはスマートフォンをいじりながらぼーっとしていた。
「買ってきたけど、どっちがいい?」
「オレンジで」
「はい」
空を見上げてみた。
岩のようにごわごわした雲、その上にかかる飛行機雲。
結局、考えてばかりだ。
「あの、ここの近くに展望台があるって朝見たんですけど、行ってみませんか?」
やけに緊迫したような表情に、思わずどきりとする。
「……展望台?」
やってたっけ。あんまり覚えていないが……。
「はい、ここです」
見せられる。
まあ、近いっちゃあ近い。
「行ってみるか」
「はい!」
なぎさは楽しそうにしている。
ありがたいけれど、どうしてだろう?
展望台、海、二人。
なにかを忘れてしまっているような気がする。
「もう疲れは取れましたし、行きましょう?」
「うん、今行く」
そう言いつつ、ポケットからスマホを取り出すと、電源がすでに落ちていた。
◇
お互い無言で歩いていた。
戻るのも疲れるだろうし、いざとなったらまた使えばいいか、と考えて自転車の精算を済ませた。
歩いているほうが良いのかもしれない。
夏だというのに、夕暮れになるのがいやに早い。
足取りも重い、眠気とは違う気だるさ。
できるだけ変なことを考えないようにして、だんだんと早足になっている彼女に付いていった。
十数分して、目的地の下部まで到着した。
想像していたのとは少し違って、展望台というよりも、公園? それとも神社か?
どっちだっていいか。石段を登っていく。
どこからか鐘の音が聴こえる。
それと同時に、木の葉が擦れる音、セミの鳴き声、どうもしなくても自然的。
頂上まで登って、上からの景色を眺める。
屋根とベンチ、風が弱まってきて、音があまり聴こえなくなる。
周りに人はいなかった。
さっきまでいた公園と、数本見える橋には人が散見されるものの、暗くてはっきりとは見えない。
それでも、海の近くには街灯が多くあって、街並みくらいは一望できた。
当然ながらゆかりさんの家のベランダで見るものとは違って、どこまでも続いているような海の姿を目の当たりにする。
海側ではなく、さっきまで登ってきた道のほうを見やる。
初めて来る場所……だよな?
にしては、どこか覚えがあるような気がしなくもない。
でも、この街には、もう何回も来たことがあって、小さい頃はそれこそ毎年来ていて。
いつもなら、まあいつかの機会に来たことがあるんだろ、とか、何かの気のせいだろ、
と考えて思考を止めているはずなのに、そうも言ってられないような、胸の中のざわめきを感じる。
隣に座る彼女も、明らかに落ち着きがない様子だった。
視線を横にずらす。同じタイミングで目をずらした彼女と目が合う。
なんというタイミングの悪さ。
お互い見つめ合ったまま固まってしまった。
けれど、沈黙はそう長くも続かず、すぐに目を逸らされた。
俺は、そのまま目を伏せる横顔を少しの間見たままでいた。
そういえば、いつも会う場所に少し似ているかもしれない。
高いところ、街並みを一望できる。
「あの」
意を決したように、ちょっとだけ大きな声で、彼女は口を開く。
「……どうした?」
「……えっと、あの……」
言いあぐねるように言葉を重ねる彼女。俺は黙って続きを待つ。
「あの……」
「……」
「……眠い、ですか?」
許しを請うような口調。
なんとなく、話題を変えようとした。と思う。
そんなことを言いたかったわけではない、とでも言いたげな表情を浮かべているように見える。
「なぎさの方が眠たそうに見えるけど」
「……い、いえ、そうですか?」
「さっきから心ここに在らずって感じ」
「……え、っと。……いま私の話はいいんですよ」
「……」
眠い、まあそれなりには眠い。
が、それは我慢できる程度で、せいぜい欠伸が出そうなくらいに留めている。
「はるくんだって、眠そうに見えますし……」
「……」
「帰りの車では揺れるのでうまく寝られないかもしれないですし、夜あんまり寝られてないって言ってましたし……」
寝させたいのか?
「……まあ、そこまで言うなら仮眠取るくらいはしてもいいけど」
「……で、ですよね。睡眠、大事ですよね」
「……うん?」
会話が噛み合っていない。
「えっと、それじゃあ、私が枕になりますね……?」
「……え」
「こういうときって、ひざ枕とか……するものじゃないですか」
「ま、まあ」
「じゃあ、どうぞ」
「……いや、勝手に決めんなよ」
「いいからいいから、どうぞ?」
肩を引き寄せられて、あまり抵抗しなかったからか、すぐに頭に柔らかい感触を感じた。
ひんやり気持ちいい。
「ちくっとしますね」
「そりゃまあ……」
頭を撫でられる。
夜は俺がずっと撫でていたのに……なんだか不思議なように思える。
「……訊きたいことが、あるんです」
「うん」
姿勢は横向きで、彼女の表情は見ることができない。
「でも、ちょっと時間が欲しくて。
考えをまとめるのに必要というか……」
「それで?」
「……いえ、えっと」
俺が起きてると気にする、とか。
もしそうなら、こっちだってある程度は気を遣う。
「……いいよ、なぎさの言う通りちょっと眠いし、枕も気持ちいいし」
「……あ、ありがとうございます」
「ゆかりさんの連絡先ってわかる?
俺のやつ、バッテリー落ちちゃっててさ」
「はい、昨日交換しましたよ。
……連絡を入れておけばいいってことですか?」
「そう、よろしく」
「じゃあ、俺寝るから」と言って、本当に寝ることにした。
眠りに入るまで、ずっと頭は撫でられたままで、彼女は小さく歌を口ずさんでいた。
◆
憂心。
眠さと酔いで頭がぐるぐるとしているときは、たいして事の重大さを受け止めずに、意気揚々と『話してみるよ』なんて言ってゆかりさんと約束を交わしたが、
ここに来る前だってそれはずっと考えてて、けれど、どうすればいいのかがわからなかった。
ここで父さんの過去を知れたのは渡りに船だった。
……と、夜の時点で考えてはいた。
でも、考えれば考えるほど、それでどうする? という感情が胸の中を支配するだけだった。
仮に、ゆかりさんとの会話で俺が想像した悪いイメージが部分的にでも正しいとして、
つらい過去があったね、それに打ち勝とうとしてたんだね、
それでどうして俺ら姉弟のことをほったらかしにするの?
母さんとはどうして父さんが悪いような形で離婚したの?
本当は、母さんのことも、俺のことも、姉さんのことも、好きじゃないんじゃないの?
どうして、いろんなものから逃げるの?
どう話をすればいいかわからない。
どうやっても責めてしまうような物言いになってしまうだろう。
父さんにだって、問題はあったのかもしれない。
それは俺が知らないことで、俺には見えていなかったことで。
踏み込むことは、あたりまえのことだけれど、勇気を伴う。
思っていることを告げて、それで相手が離れていってしまったらどうする?
"どうするか"ということよりも"その先に何が待っているか"を考えて、そこから逆算して行動を起こそうとしていたら、いつまで経ったって何もできやしない。
でもでもだって、そればかりだ。
優柔不断を拗らせて、大事な人が離れていく。
繰り返す。
似ている。
そういうことなのかもしれない。
◆
また、同じ夢だ。
朝見た夢と同じものを見ている。
手を離すのは、いつも俺の方だった。
重なるところがいくつかあっても、状況はほとんど違っている。
けれど、自分から遠ざかって行く人を引きとめるなんて、俺にできるのだろうか?
近くにいる人が離れていくような夢。
急に、視界がぼやける。
不意に、目の前に現れた少女が、俺の耳元で何かを囁く。
場所は、夕焼けの空、高台。
いつも見ていた夢で、最近は見ていなかった夢。
泣きじゃくる女の子。
どうにかして慰めようと思ったけれど、俺の意思は関係せず、時がただ流れていく。
正面から抱きつかれる。
また来るから、と言う。
また会えるから……。
ずっと一緒にいようね、身勝手な約束。
でも、それ以降会えなかった。
──あれ?
これは夢で、俺の空想で。
……会えなかった?
うまく頭が整理できない。
するすると出てくる記憶。
現実なのか? それとも、これもまた妄想の一種か?
いつもなら目を覚ますところで、なぜか意識が飛ばない。
続きが流れる。
手を握り返す。自分の手も、少女の手も、とても小さかった。
周りには誰の姿もない。
時刻を知らせる鐘の音。
行かなきゃ、と言う。
また少女が泣き出してしまう。
頭を撫でる、どちらともなくお互い顔を近付けて──。
黒く長い髪の少女。
透き通るような白い肌。
──唇が重なる。
視界が、ぼやける。
◇
起きてください、と頬をつねられる。
すぐに身体を起こして、少し彼女と距離をとった。
「おはようございます」
寝ているうちに、あたりは一本の街灯を残して真っ暗になっていた。
「おは……よう?」
「あ、こんばんは?」
「どっちでもいいけど」
うん、と頷いて、彼女は深呼吸をする。
寝る前のことを思い出す。
「……私の言いたかったこと、固まりました」
「……うん」
「でも、その前に……と言っても、関係はある話なんですけど」
「うん」
「今日の朝も、さっきまでも、うなされてる様子でした。
……なにか、あったんですか?」
ふっ、と身を寄せてくる。
「なにか、って言っても」
「……なんでもいいですよ?」
「……夢を、見てたんだ。みんなが離れていく夢。
みんなは俺に背中を向けてどこかに歩いて行く。でも、俺は何も言えなくて、何もできなくて……」
「それで、私の名前を呼んでいたんですか」
「呼んでたの?」
「……はい」
寝言。自分ではわかるはずもないけれど、指摘されると何だか変な気分になる。
「さっきまでは、全然違う夢も見てて」
「……」
「女の子と約束をする夢を見てて、
でも、その女の子とも会えなくなって……」
びくり、となぎさの肩が跳ねる。
「その……約束って言うのはどんな……?」
「……『一緒にいようね』って」
「……っ、と、その女の子……は、誰かわかるんですか?」
「……いや、まず現実なのかもはっきりしてないから」
「そうですか……」
「けど、約束をしたのはこんな場所で……って」
言いながら周りを見渡すと、そこにあったのは、さっきまで見ていた夢と寸分変わらないような景色。
「どうしたんですか?」
「……この場所だ」
「……」
緩い夜風が吹く。
潤んだ瞳を、ごしごしと手で拭う。
彼女は、はっとした表情をして俺の反対を向く。
泣いている……んだよな。
どうして。
「どうしたの?」
「……な、なんでも、ないです」
「泣いてる」
「……泣いてないです」
まっすぐとこちらを見て、強がるような調子で断言される。
どう見ても、泣いてるようにしか見えない。
「私あっち向きますから、はるくんも反対を向いてください」
「……どうして?」
「どうしても、です。お願い……します」
理由になっていない。
泣き顔を見られたくない、とかいろいろな理由を考えてみたけれど、納得いくようなものは浮かばない。
どうしてもと懇願されたら、余程のことがなければ聞く方がいいとは思うけれど……。
……いや。
見ているとうまく話をできないくらいなら、俺が譲歩するべきかもしれない。
「わかった」
背中を向けると、彼女はおそるおそるといった様子で背中を合わせてきた。
身長差で、彼女の頭が背中に当たる。
「……私の話に戻ってもいいですか?」
「なぎさの話したいように話してくれていいよ」
「……わかりました」
はあ、となぎさは息を整える。
「まずは、謝ります。ごめんなさい。
私、昨日の夜に聞いちゃいました」
「……なにを?」
「はるくんが……男の人にいろいろ言われているのを、です」
「……」
「お手洗いを行ったあとに、二階に一度戻ったんです。
それで、ごはんを食べたところに戻ろうとしたら、中から怒鳴るような声が聞こえて……」
「うん」
「……すぐにゆかりさんが来て、全部は聞いてません。
でも、その……はるくんのお父さんのことを言われてるのは、聞いちゃいました」
「……うん」
聞かれていた。
よりによって、なぎさに。
他の人なら別にいい訳ではないけど、彼女に知られるのは、すごくモヤモヤする。
「……怒ってますか?」
「……ん? いや、ぜんぜん」
「それで……。私はずっと気になってて、寝てるときもうなされていて。
今日も私が話しかけても反応が薄かったりだとか、ぼーっとしてることが多くて……」
「……」
話しかけられたときは、いつも何かしら反応はしているつもりではいたけれど。
……なぎさがそう言うなら確かなのだろう。
「それで……」
「……」
「……何を言われたのか、訊いてもいいですか?」
「なんで」
問うと、向こうから、言いたいことを押し殺したことで出たようなくぐもった音が聞こえた。
「……いけませんか?」
「え?」
「わかってます。……わかってますよ、家族のことを訊かれたくないのも、私に知られたくないっていうのも」
「全部わかってます」となぎさはむっとしたような声で言う。
「でも……それでも、近くにいる人が困ってて、その人の力になりたいって思うことは、いけないことですか?」
言い切られると、答えに窮する。
いつも通りそうと思うけれど、言っている内容は全然ベクトルが違うことで、比較できるものではない、とも思う。
「……駄目ではないけど、だからといって踏み込んでいいとはならないだろ」
「……」
「……言えることだったら、もっと前から言ってると思う。
言えないことだから、俺は隠したいと思うし、なぎさにも知って欲しくないって思う」
「……それは、そうかも、しれないですね」
「……わかってくれた?」
意を決して訊ねてきた彼女には酷だけれど、知られるのはたまらなく嫌だ。
「……じゃあ、質問を変えます」
「え……ああ、うん」
「私と初めて会ったときに、私がなんて言ったか覚えていますか?」
質問内容ががらりと変わる。
彼女と初めて会ったのは、俺が中三のときだ。
いつものあの場所で、制服姿のままで誰かを待っているように佇む彼女に声をかけた。
そのとき、俺は彼女に対して思った通りに「誰か待ってるの?」と言ったと思う。
彼女は首を横に振ったから、何も言わずに隣に腰を下ろして。
持ってた缶コーヒーを差し出したら受け取ってくれて。
大まかには覚えている。
どうして話しかけたのかは覚えていないけれど、きっと自分の場所に侵入してきた彼女のことが気になったのだと思う。
──それで、彼女は俺に何と話しかけてきたんだっけか?
「……覚えていませんか?」
「……うん、ごめん」
答えると、とくん、と音が聞こえた。
背中越しに伝わってきた彼女の鼓動か、あるいは息をのむ音か。
「……同じことを、言います」
背中が離れた。
なんとなく後ろを振り向いてはいけない気がして、前をじっと見たままでいる。
両手で、肩を掴まれた。
「また死にたくなりましたか?」
「……は?」
死に……、え?
……意味がわからない。
そんな記憶は全くもってなかった。
彼女はそれきり黙ったままで。
もう一度考えてみる。でも、やっぱりそんな記憶はなくて。
掴まれている肩から手を振りほどいて、彼女の方に向き直る。
目を合わせると、なぎさは悲しげに目を伏せた。
「……私は、今にも死にたいって顔をしてますね、ってあなたに言いました」
「……」
「今だって、そのときと同じです……。
とっても悲しそうな顔をしています」
彼女はもう一度、自分の目を手で拭う。
俺は、その姿をただ見つめていることしかできなかった。
「……私はあなたに、そんな顔をしてほしくないんです。
あなたは私に自分のことは話してはくれないけど、私といるときは落ち着いてくれてるって、そう思っていました」
「……」
「自惚れかもしれません。それに……私がとやかく言うのもおこがましいかもしれません」
「そんなこと……」
「でも最近になって、あなたはまたいろいろ考え込むようになってしまって……」
「それが、たまらなく悔しいんです」と途切れ途切れの声で、彼女は言う。
「だからここにいる間は、口調や呼び方を変えてみたり、いつもと違うことをしてみました。
そんなことをしても効果なんてないってわかってますけど……気が紛れてくれたらいいなって思って」
呼び方。口調。
「……いつまで経ったって、あなたのことは何もわからなくて、苦しんでるのを眺めてるだけで」
「……」
「もう、嫌なんです。……あなたの、力になりたいんです」
「……うん」
そこまで考え込ませてしまっていたなんて、全く気付いていなかった。
彼女は人をよく見ていて、度々俺のことを見抜かれることもあったけれど、核心部分にはいつも触れてこなかった。
俺はその周辺に至る度に、適当なことを言ってはぐらかして、彼女にはずっと嘘をついていた。
それを、彼女は全部わかっていた。
「話して、くれませんか?」
さっきは一度断った。
それは、彼女がここまで考えているなんて知らなかったから。
言ってしまえば、俺も彼女も楽になれる。
彼女はたとえ何を聞いても、気にしないと思う。
それで……それで……。
急に、涙が溢れそうになる。
こんなことを言われるなんて、少しも予期していなかった。
「大丈夫ですよ」
震える腕にきゅっと手を重ねられて、震えを無理やり止められる。
「なんで……?」
「……私は、どこにも行きませんから。
あなたと、ずっと、一緒にいますから」
「……ずっと」
「そうです。ずっと、です。
離れませんし……絶対に離しませんから」
──ずっと。
ずっとなんてない。
人は軽々しくずっと、と言って、裏切って、切り捨てて、嘘をついて。
そうに違いないと思っていた。
永続的なものがないなら、俺自身が変わらなければいい。
俺が変わらなくて、周りとの関係も変わらなくて、それなら、何も起こらないし、誰も悲しまない。
信じられないことならはっきりと、そんなの信じられない、と言ってしまえばいい。
でも、彼女の真剣な目を見ると、真剣な表情を見ると、信じられないなんて、そんなことを言えるわけがなかった。
「……話すよ、話す」
俺がそう言うと、彼女は立ち上がった。
「はい、一言一句聞き逃さないように、ちゃんと聞きます。
全部じゃなくてもいいです、どんなことでも、聞きます」
言いながら、彼女は俺を安心させるように笑った。
彼女は泣きやんでいた。
なら俺も、泣きやまなければならないと、そう思った。
◇
石段を下りながら、話をした。
彼女は俺の一段後ろを進んでいた。
顔が見えることがなく少しほっとした。
流石に、全て包み隠さずというのはできなくて、ところどころ言い淀みながら、
俺の両親は離婚していて、それをネタに昨日伯父さんに詰られたこと、
父親との関係が悪いこと、知らないことが多すぎて戸惑っていることを伝えた。
話が終わったあとも、ただ一言「話してくれてありがとうございます」と言ったきり彼女はなにも言わなかった。
俺は、そんな彼女の行動原理が読めなかった。
これまでも一緒にいてくれて、これからも一緒にいてくれる。
話を聞いてくれて、なにも言わず頷いてくれて。
「……なあ」
後ろにいる彼女に声をかけて、振り返った。
「……はい?」
手を伸ばせば、触れてしまいそうなところに彼女がいる。
立ち止まる彼女を見て、頭がくらくらとする。
どこかで見たような。既視感。
さっきまでの夢と重なる。
少女は、泣きやんだあとにこうやって笑ってくれた。
その姿と、なぎさが、重なる。
……いや、それはありえないだろ。
ここは昔知った場所で、なぎさは自分の近くにいる人だ。
妄想。
そう言い切れるか?
「もしかして、俺と……」
「ハル! 迎えに来たよ!」
「……あ」
下から、ゆかりさんに声を掛けられる。
「……降りましょうか」
彼女はてくてくと俺を追い越して、ゆかりさんの所へ駆けて行った。
遮られた。
でも、どうせ妄想だし、変なことを言ったら彼女だって困るだろう。
「こんなところまで来てたんだ。上全部真っ暗じゃん」
「あはは、明るいうちは景色が綺麗だったんですよ」
「そうなのー?」
「ゆかりさんは、眠気大丈夫ですか?」
「だいじょぶだいじょぶ! 車停めてあるから、今から帰ったら日付回るくらいには帰れるよー」
「運転よろしくお願いします」
ゆかりさんは俺の隣に来ると、顔を覗き込んできた。
「……ハル? 元気なくない?」
「ううん、そんなことない」
「まあ、これからは帰るだけだから大丈夫だけど」
「うん」
駐車場に着いて、車に乗り込む。
ゆかりさんは既に家から荷物を持ってきてくれたらしい。
じいちゃんばあちゃんには、朝に簡素な挨拶しかしてないから、帰ったら電話しよう。
なぎさは帰りは後ろに座りたいですと言って、俺の隣に座ってきた。
車内にはゆっくりとした音楽が流れて、暗くてよそ見をするのが危ないというのもあってか、ゆかりさんは話しかけてはこなかった。
「私、ちょっと眠いかもしれないです」となぎさが言う。
「寝ちゃっても大丈夫だよ?」とゆかりさんが返す。
なぎさはゆかりさんに礼を言うと、ひと一人分くらいある俺との距離を詰めてきた。
耳に顔を近付けてきて、「ちょっと」と声を掛けられる。
「なに?」と返すと、彼女はわざとらしく指を立てて、しーっと静かにするように促す。
そして、また顔を近付けて、
ぼそっとひとこと、
「……手を、握ってもらえますか?」
と口にした。
返事をせずに手を握ると、彼女は安心しきった顔で微笑んで、俺に身体を預けてきた。
俺もいくらか安心して、また目を閉じることにした。
車じゃ寝付けないと言ったのは彼女なのに、俺も、彼女も、目を閉じてからすぐに寝入ったようだった。
◇
窓の外からの鳥の声で目覚めた。
眠気の残る目を擦りながら立ち上がる。
心労がたたっていたのか、深夜に帰宅したあとも、シャワーを浴びてからすぐに眠りについた。
昨日起こされたときには、隣にはなぎさの姿はもうなくて、あれは全部夢だったのかもしれない、とすら思えてくる。
ゆかりさん曰く、先に起きたなぎさの家に寄って、俺を起こすのも悪いからそのままでいた、ということらしいが。
でも、現実感はあまりなかった。
顔を洗ってから、一階に降りた。
いつものように姉が朝食を準備していて、ダイニングテーブルの近くに、ゆかりさんが座っていた。
「おはよ、ハル」
「……おはよう」
そっか、泊まったんだ。
「朝ごはん、もうすぐできるから待っててね?」
姉がキッチン越しに話しかけてくる。
「うん、そういえば……ただいま」
「あ……うん。おかえり」
「お土産とか、あとで持ってくるから」
「うん」
いろいろ思い出して、こう。
ぎこちなくなるのは、ゆかりさんが悪い。
テレビを見ながらゆかりさんと話をしていると、やがて朝食が並べられた。
「そういや、楓も来れば良かったんじゃない?」
「一理あるかも」
「……でもハル的には……ふふっ」
「なんですか」
「昨日の夜さあ、車であんなに……」
「ちょっとハル、なぎちゃんに何かしたの?」
「してません」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「……まあ、私も少しは気を遣ってあげたところもあるから、誘われても行かなかったよ?」
「どういうこと」
「……はあ、まあいっか」
呆れられた。
うーん、寝起きでよくわからない。
味噌汁美味しい! テンションはおかしい!
「ゆかりちゃんはいつまでいるの?」
「わたし? は、どうしよっかなあ。
戻るのも面倒だしなあ……」
「じゃあ私と遊びに行こうよ」
「え、いいけど……。予備校とかないの?」
「……うん、今日はお休み。連れて行って欲しいところがあるの」
「楓がそう言うならいいけど、ハルも?」
「……いや、午後からバイト入ってるから。
いろいろやることあるし、外に出るの面倒かも」
「そっか。バイトかあ……なぎさちゃんも?」
「今日入ってるかはわかんない」
「……ふーん、んで、楓はどこに行きたいの?」
「……あとで、話すから」
◇
朝食を食べ終えたあと、自室に戻ってベッドに倒れこむ。
昨日の展望台での出来事がフラッシュバックする。
女の子の前で泣いたんだよな……。
手には、ずっと繋いだままでいた彼女の手の感覚が残っている。
充電済みのスマートフォンを取り出す。
なぎさからの連絡はなかったが、代わりにミヤコさんから「無事に送り届けてくれてありがとう」ときていた。
それに返信をして、他のトークをするすると見る。
コウタ 25
なんだこれ、と思ってトークを開く。
そこに書いてあったのは、デートの感想のようなもの。
実況つき、ていうか、長らく無視してしまっていたみたいだ。
ああ、そういえば、吉野さんと二人で遊びに行くとかなんとか……。
完全に失念していた。
どう返信したものかな、と考えていると、がらっと部屋の扉が開いた。
「姉さん、どうしたの?」
「お土産」
「……あ、はいこれ」
お菓子と、ぬいぐるみ。
バッグに詰めるのが少し大変だった。
「うん……ていうかさ」
言いながら、姉はポフッと俺のベッドに腰掛ける。
「どうなの? なんか進展あった?」
「なんの」
「なぎちゃんと」
「ないよ、楽しかったけど」
「ですよねー」
「……」
「まあ、楽しかったならいいんじゃない?
電話したときみたいに寂しそうじゃないし」
「……あー、うん。いや、寂しかったよ普通に」
「お姉ちゃんっ子ですものね」
「調子乗んないで」
「だって事実でしょ」
「……はあ」
姉はたいそう自信ありげである。
「あ、そうそう。こんなことしてる場合じゃなかったんだった」
「ん?」
「下に、ちーちゃん来てるから」
「え……」
「ちゃんと仲直りしなさいよ?
見てる私もそのままは嫌だし、私たちもう出るからさ」
「ちょ、二人っきりはさすがに……」
「だってそうまでしないと引きずるでしょ? あんたたち」
そういうわけで。
再び下に降りると、千咲がゆかりさんと談笑していた。
「あ、ハルだ」
さっきまで俺と話してただろ、ゆかりさん。
千咲がこちらに振り向く。気まずそうな表情で目を伏せる。
「生ちーちゃん、かわいいね……」
「あ、ありがとうございます」
生ってどういうことだ。
立っていたって仕方がないので、千咲の反対側に座った。
「じゃあ、わたしもそろそろ準備しなきゃだから、あとは二人でごゆっくり」
「……ああ、はい」
「行ってらっしゃい」
手を振って送り出したものの、俺はその場に取り残されてしまって。
テレビの電源を消した。
「ゆかりさんのこと覚えてたの?」
「……えと、はい」
「……」
「……」
気まずい。
「……遠征どうだった?」
「普通です」
「うん」
「……」
「なんで家来たの?」
「楓ちゃんに呼ばれました」
「そう」
「はい」
私のコミュ力は限界です。
何が地雷なのかわからないし、かといって変なテンションで接するのも気が引ける。
前に引き金を引いたのは俺の方、いや、千咲の方か……?
「今日の夜」
「……ん?」
「……今日の夜に、泊まってもいいですか?」
「うちに?」
「はい」
「泊まるのはいいけど」
「楓ちゃんとゆかりさんは帰ってこないみたいです」
「え?」
「……泊まっていいですよね」
泊まるくらいなら、とは思うけれど、家に二人はまずいだろ。
と思う。思うが……。
断るのも手だけれど、あんまり刺激したくもない。
「じゃあ、誰か呼ぶ?」
「綾ちゃん呼びますか」
「……1対2は厳しい」
「じゃあコウタくんも」
「来るかな?」
「来ます」
「なぎさと杏も呼ぶ?」
人数が多いに越したことはない、はず。
「私家主じゃないですし、呼びたいならどうぞ」
「……ていうか、俺午後バイトあるから、夜ごはん前くらいにしかうちに入れないけど」
「かまいませんよ」
「それに、部活は?」
「遠征あけで、二日休みです」
「……うん、ならいいか」
「綾ちゃん来るって言ってます。あと、コウタくんも来ると」
早いな。
「俺もあとでなぎさに連絡してみる」
「……はい」
昨日の今日でまた顔を合わせる。
さすがに連続の外泊は了承してくれない可能性は高いが、仕方がない。
「そうですね、十八時くらいにまた来ます。二人は連れて来るので大丈夫ですよ」
「……もう帰る?」
「えと……そうしますね」
「じゃあ、鍵渡しとく。俺帰ってこなかったら入ってていいから」
「わかりました、またあとで」
そう言って、千咲は椅子を綺麗に戻して、玄関まで早足で歩いて行って、バタンとドアが閉まる。
彼女は俺と話をしている間、表情ひとつ変えていなかった。
雰囲気だって少し怖い。
それに、きちんと彼女に謝れなかった。
部屋に戻ってコウタに返信する。
比較的早く返信が来て、どうにも喜んでいるようだった。
そりゃそうか。
と、思ったところで電話が鳴った。
『仲直りできた?』
「……いや」
『悪化?』
「……つーか、二人でどこ行くの」
『これから買い物したあとに、温泉泊まってくるから』
「……うちもなんやかんやあって何人か泊まりに来るんだけど」
『ちーちゃんも?』
「そ」
『じゃあ仲直りしなさいよ。
あと、あんまり騒ぎ過ぎないように、近所迷惑になることだけは避けてね』
「うん」
姉さんもゆかりさんも戻ってこないのか。
まあ、大丈夫だろ。ちょちょっと話して、ゲームでもして時間を過ごせば。
それが簡単にできればいいんだけど、そうもいかないか……。
◆
「それで、どうしてなの?」
「……いや、特に何があったってわけでもないんです。
ただ、家にいると落ち着かなくて」
「親御さんと仲が悪いの?」
「……いえ、普通です」
「……なら、自分の部屋にずっと篭ってるとか」
「それも、少し……」
「……でも、本当に何もないなら、担任の先生に心配かけちゃダメじゃない」
「……そうですよね」
「うーん、困ったなあ。橘先生には詮索されたくないってのもあるんでしょ?」
「……」
「……」
「……はい」
「学校帰りにどこかに寄り道ってのも、私の立場で言うのはよろしくないかなあ……?」
「……」
「まあ、いっか。君の家ってどのあたり?」
「南学区です」
「そっか……あそこらへん閑散としてるからね……。
うーん……あ! いい場所あるよ」
「……はあ」
「駅の近くのコンビニがあるじゃない?
そこから路地に入って、少し歩くと石段があるから、そこを登るの」
「……」
「そしたらね、ベンチのある展望台があるから、そこにいたらいいんじゃないかな?
結構雰囲気あるし、街の方の景色だって綺麗に見えるよ」
「えっと、サボり場所かなんかですか?」
「いやいや、放課後に学校に残ってるなら、そこに行くのがいいんじゃないかなって。
ほら、詮索されたくないって」
「まあ……いや、はい。暇なときにでも行ってみます」
「……いつでも保健室に来てくれてもいいんだよ?」
「いえ、もう大丈夫です」
「……じゃあ、くれぐれも食事と健康に気をつけて」
「……はい」
「まだ時間あるから、もう少し寝てなさい」
◇
午後になって、バイト先へ向かった。
なぎさは今日入ってないらしく、お姉様系先輩と久しぶりに(長らく会っていなかった気がする)顔を合わせた。
帰省していた旨を伝えると、私も帰ってた、と。
こっちの方の出身じゃないらしい。
夏休みかつお盆時というのもあって、客の入りが多い。
他のバイトの人は帰省しているらしく、店長、先輩、俺でまわす。
動いていると、やはり時間が経過するのが早く、すぐに夕暮れ時になった。
帰る途中、七海宅へと寄った。
門の外で待っていると、杏が駅の方から歩いてきた。
「お兄さん、こんばんは」
「よっ」
杏は会わないうちに髪を短く切っていた。
どうやら、みたらしの散歩をしていたらしい。
中に付いて行って、みたらしを撫でていると、ちょいちょいと手を振られる。
「準備できてますから、荷物持ってきますね?」
「……ミヤコさんは?」
「お仕事です。ちょっと待っててください」
「うん」
なぎさにはやんわりと断られたが、杏は泊まりたがったから、じゃあ来ていいよ、という次第だ。
「お待たせしました、行きましょうか」
「うん」
家に帰ると、すでに部屋の電気がついていて、中から話し声が漏れていた。
「あ、ハル、おかえり」
「お帰りなさい」
「お邪魔してます」
三者三様の挨拶をされて頷くと、早く遊ぼうぜ、みたいな雰囲気を出された。
千咲の様子はいつものものに戻っていて、持っていた荷物を受け取られた。
「……ハル、その子は?」
「なぎさ……同中の後輩の妹。この前泊まったんだよ」
ぺこりと杏がお辞儀する。
「ほう、誘拐してきたのかと思ったじゃねーか」
「ないから」
「その後輩さんは?」
「今日は来れないみたい」
「まあ、とにかく遊ぼうぜ」
テレビをつけて、ゲーム機に電源を入れようとすると、手を止められた。
「やるのはこれだ」
「ファミコン?」
「そうだ、夜通しやろうと思って引っ張り出してきた」
「寝ない気?」
「あたりまえだろ」
「……はあ、まあいいけど」
「隣失礼しまーす」
コウタ、俺、杏の順で並ぶ。
「千咲と吉野さんは?」
「わ、私たちは課題終わらせないと」
「右に同じく」
「コウタは」
「課題なんぞ知らん」
さすが天才型。よく知らんけど。
「てか、君たちご飯は食べたのかね」
「食べてない」
らしい。
「杏は?」
「食べてきましたよ」
四人分の食料があるかどうか確認したが、当然無かった。
米やレトルト食品ですら切れていた。
「どこか食べに行きますか?」
千咲に問われる。
「いや、なんか弁当でも買ってくるよ。
お菓子とかもずっと起きてるならうちにあるのじゃ足りないだろうし」
「わかりました」
「コウタ、お前も行くぞ」
「俺か? まあいいけどよ。
じゃあ、杏ちゃん、適当に挿してプレイしてていいから」
「はーい、お先してますね」
というわけで、外に出た。
「で、どうだったの。デート」
「……おお、その話か」
「うん」
「どうってもなあ……。買い物行ってご飯食べて、アミューズメントパークで遊んで、家帰ってまた遊んで」
「ボウリングとか?」
「と、カラオケとかバッティングセンターとか」
「……楽しそうだな」
「楽しかったよ、綾かわいいし」
「ちょ、お前呼び名」
「名前で呼び合おうって言われてさ」
そう言って少し照れたように頭をガシガシと掻く。
吉野さんは吉野さんって感じだよなあ。
男嫌いなのかとずっと思ってたが、意外とそうでもないのか。
「へえ……。なんかいいな、そういうの」
「そっちは? 帰省してたんだろ」
「言ったっけ」
「片桐さんから聞いた」
「あー、まあ、景色綺麗だし、空気澄んでるし、良いとこだったよ」
「お姉さんと行ったの?」
「……いや、さっき言った後輩の子と」
「女の子だろ? これまた初めて聞いたし新キャラだな」
新キャラて。
「それは、お前が人のことに興味ないからだろ」
自分は自分。
コウタは確固たる信念に基づいて行動しているように映る。
目的を設定したらゴールまで一直線な姿は好感が持てるし、何かとソツなくこなすのも格好いいし。
他人からの評価を全く気にしないし、友達付き合いも悪くはないだろうけど、一人でいる方が性に合ってるんだろう。
「いやでも、おまえだって訊かれても話さないだろ?」
「よくわかってるじゃん」
「まあな」
「……この先、告白とかするつもりなの?」
「ハル……今日は一段とグイグイくるな」
「気に障る?」
「いんや。まあ、もうちょっと仲良くなれたらしようかなとは考えてるけど」
「ふうん」
「訊いといて雑な返事だな」
「……あ、ごめんごめん。
いや、コウタは恋愛とか興味ないのかと思ってたから」
「あるわ、俺だって男子高校生だし」
「だって告白とか断ってたから」
「そりゃおまえ、タイプじゃなかったら断るだろ」
「されたことないからわかんねーな」
まあ、確実に断るだろうけど。
「綾はこう……ビビッときたというか。
なんつーか、付き合いたいなって思ったんだよ」
「いきなり惚気かね」
「茶化すなよ」
「まあ、吉野さん美人だしスタイルいいし」
「……それ以外にもいろいろあるぞ」
「待て。ストップ、吉野さんの魅力は前に話しただろ」
慌てて止めると、コウタは腹を抱えて笑った。
「ハル、ビビりすぎ」
「コウタが悪いだろ」
「ぷくくっ……冗談だって」
すごく楽しそうだ。
つられて俺も笑ってしまう。
「……てか、ビビッとくるって?」
「うーん、一目見たときにこの子いいなって感じ」
「ナンパ?」
「折るぞ」
「ははは、冗談冗談」
肩を押されてよろける。
すぐにやり返す。
無灯火のチャリにぶつかりそうになる。
二人でまた笑う。深夜じゃないのに深夜テンションみたいだ。
「親友よ」
「いきなりどうした」
「頼みがあるのだ」
仙人かよ。
「俺は夏休み中に綾に告白する。
それに、協力してほしい」
「協力? それは、前も言ったけど……」
「いや、別に何かを直接的にしてほしいわけじゃないんだ。
お膳立て、というか、舞台作りを手伝ってほしい」
「たとえば?」
「まあ、じきにわかるさ」
それきりその話は打ち止めで、違う話をした。
弁当屋で腹にたまるような弁当と、コンビニでお菓子、ジュース、エナジードリンク(お墨付き)を買った。
コウタはどこまでも本気らしい。
家に戻ると、杏が青い顔をしながらテレビの前で固まっていた。
「お、お、おおお兄さん、ちょっと、何もクリアできないんですけど」
「……ちょ、え? ゲーム?」
「うん、そうなのです」
荷物を置いたコウタが後ろで笑っている。
「そりゃそうだよ。そこらへんのマリオとかとはレベルが違うぜ」
「……そうです、どうやっても赤いのにやられちゃいます」
挿さってるゲームを見る。
魔界村。
転がってるゲームを見る。
スペランカー。トランスフォーマー。星をみるひと。
申し訳程度のカービィ。
あ、これ鬼畜ゲーじゃん。
どうやら……長い夜になりそうだ。
◇
そんなに難しいわけないだろ、と俺もプレイしてみる。
五分間で十回以上骨になる。
ゆっくり進む→死ぬ
ダッシュ→死ぬ
普通のスピード→死ぬ
なんだこれ。
着地点の操作ができないから、接近戦で連射されると死ぬし、足元から急に出てくるゾンビの位置を覚えなきゃいけないし。
一面からこれって難易度高すぎないか?
背景は暗いし魔王城の近くだし、こんなところでナニかをしだしそうな雰囲気を出してるアーサーとプリンセスも頭おかしいし。
「……これ、いつのゲームだっけ」
「古き良き80年代だ」
「これじゃ古き悪しきだろ」
「まあまあ、おまえ杏ちゃんより下手なんじゃね」
「うっせ」
杏が俺に向けて笑ってきた。
ちょっと悔しい。
「てかなんでこんな昔のゲームあんの」
「その昔、ゲームセンターCXという番組があってだな……」
「はあ……」
コントローラーを杏に手渡して、しばらく死に続ける様子を見ていると、「はーくん」と後ろから声をかけられた。
「勉強教えてください」
吉野さんは黙々と進めているが、千咲はイマイチ集中できていないようだった。
「数学の、この問題なんですけど」
「……あー、これはパターン問題だから。
多分教科書の章末に類題載ってるからそれ参考にすればいんじゃね」
「ありがとうございます。
って、私教科書持ってきてないです」
「貸す?」
「いや、はーくんが教えてくれればよくないですか?」
「まあ、いいけど」
普通に普通。
朝の態度は一体……。
隣に座って勉強を見てあげた。
やっぱり部活やってると課題とか面倒だよな。
一年の時は大したことなかったけど、今年は容赦ない量の課題が出されてるし。
「進捗状況は」
「多めに見積もって四割終わりましたね」
「……見積もらないと?」
「三割弱ないですね」
「やばくね」
「はい」
「吉野さんは?」
「もーすぐ終わる」
一般的な進捗速度。よりも少し速いくらいか。
一夜漬けの人もなかなかいるとは思うから、千咲みたいにやる気があるだけマシなのかもしれない。
テレビの方ではコウタと杏がわいわいとゲームで盛り上がっている。
「そういえば、はーくん。お誕生日おめでとうございます」
「え、ハル今日誕生日なの?」
「まあ」
コウタと吉野さん、それと杏から次々におめでとうと言われる。
こんなに祝われたのは初めてかもしれない。
「遠征短くなったので、こうして直接祝えますね」
「そうだったんだ」
「はい」
千咲はにこりと笑う。
「プレゼントとか用意してないわ、言ってくれたら何か持ってきたのに」
「……いや、いいよ。気持ちだけ受け取っとく」
「俺からの愛か?」
「やめろ気持ち悪い」
家族の人に祝われないの? とか、両親は誕生日でも仕事なの? とか、余計なことを訊かれなかったのは助かった。
普通の家庭では十七歳にもなって家で祝ってもらったりするのか知らないが、うちではまずありえないことだ。
市販の弁当、ポテチ、コーラ、チョコレート。
体に悪いものばかり。
でもまあ、文句は言えまい。
食材を買ってきて料理するのも面倒だし、かといって誰かに作らせるとか手伝ってもらうのも気が引けるしで。
ゲームはやっとのことで一面をクリアしたらしいが、二面の中ボスに負けてやり直しと。
果てしなさすぎる。ゲーム作る人もこうして鬼畜ゲーとして長らく親しまれてるのは本望だろうな。
そうこう考えつつ、千咲が問題を解くのを見ていると、吉野さんはある程度カタがついたようで、コウタと杏の方へ行った。
勉強なあ……。嫌いではないけど、決められた量以上をすることは今までなかったし。
コーラに飽きて、麦茶を飲む。
もう二十二時じゃねーか。
もし完徹するとしたらまだ、というのが正しかったりもするのか。
「……疲れたー。とりあえず、数学は終わりましたね」
「よかったな」
「次は古典です」
「……もしあれなら解答写せば?」
「補習かかると部活行けないんで」
「へー」
ああ、課題テストがあったか。
古典は特に教えることもないので、漫画を持ってきてだらだら読むことにする。
エナジードリンク(一本目)注入。
風呂を沸かす。湯加減、千咲は四十一度派だったな。
「風呂沸かしたから、入りたい順に入っていいよ」
「あ、じゃあ私入っていい?」
吉野さんが言うと、杏が一緒に入りましょう、と言った。
うーん、また何だかいかがわしい想像が捗ってしまいそうな気もする。
なぎさと杏の百合の件(誇張)。今すぐにでも訊きたい気分だ。
「俺らも一緒に入るか?」
「さっきからなんなんだよ、お前」
「下衆な目をしてたから」
「……思考を読むな、まったくもう」
ポカーンとした顔で女たちに見られる。
吉野さんはどういう内容か気付いて大笑いしていたが、他の二人は首を傾げたままでいた。
仲のいい二人はそのままお風呂場に向かっていき、それに千咲もついて行った。
席が空いたのでコウタの隣に座ってプレイするのを眺める。
ボス前まで来ている。意外とコツを掴むといけるやつらしい。
「あのさあ」
「なに?」
「花火したい」
「花火大会行けばいいじゃん」
「いや、したいんだ」
見たいじゃなくてしたい、か。
「そういや、吉野さんも言ってたな」
「マジで? 綾も?」
「うん」
「じゃあするしかないっしょ!」
と言ったところでゲームクリア。
エピローグ音楽が流れて、俺は少し安堵する。
だが、コウタはまだまだやる気に満ち溢れたような表情でコントローラーを握りしめている。
「このゲームさ、二周目あんだよね」
「……え」
「真ボスは二周目いかないと出てこない仕様」
「はあ……」
苦節四時間半。
二周目っていうと雑魚キャラでも普通にグレードアップしてたりするんだよなあ。
「んで、日時はどうするかね」
「俺も参加前提なの?」
「そりゃあ、俺と綾だけじゃ大して面白くもないだろ」
「……お、おう」
「人数は多いに越したことはない。
今ここにいる五人と、おまえ他に呼べる? お姉さんとか」
「姉さん……は、あとで訊いてみる。
杏の姉も誘えばたぶん来る」
「うんうん、例の後輩の子ね。
じゃあ、それで七人か」
「まだ決まってないけど、そうだね」
「七はキリが悪いな。俺の弟を呼ぼうか」
「何年生だっけ?」
「いま小六。クソガキだけど家でずっと暇そうにしてるから交ぜてやらんこともない」
なかなか辛辣な物言いで思わず笑ってしまった。
「つーか、明日も泊まっていい?」
「別にいいけど」
「親が旅行に行くから、弟も連れてくることになるんだが」
「ちょっと前に旅行行ってなかったか?」
「……まあ、夫婦のデート?」
仲がよろしいのですね。
「いいよ」
「助かるぜ」
喋りながらプレイしているからか、すぐ死ぬ。
コウタもエナジードリンクを注入した。
「そんで、明日はピザでも取ってパーティーだ」
「その金どこからくるの」
「考えとくわ」
謎。
「俺らはいいけど、女子高生の親は連泊なんて許さないんじゃないでしょうか」
「大丈夫だろ、きっと」
さっきから適当すぎる回答ばかり。
逆に俺が考えすぎか?
熱中するコウタの邪魔をするのもあれかな、と思い、椅子に座って漫画の続きを読むことにする。
下に持ってきた分を読み終えてしまって、テーブルに上半身を預けながらぐだーっとしていると、女たちが帰ってきた。
「あがりましたよ」
「……へい」
薄着でウロつくのはやめていただきたい。
コウタくんのなおも熱中しておられる姿は神々しいまである。
「私たちってどこに寝たらいいの?」
「この前のところでお願い」
直視したくなくて、寝そべったままでいたが、千咲と吉野さんはそのまま近くに座ってきた。
「やっぱり、夏のお風呂上がりはアイスですよね」
「あ、私も」
「冷凍庫から取っていいよ、たぶんあるから」
姉がいると、そこで女同士で絡んでくれるからそこまで気にならないけど、今は俺しかこの家の人はいないから困ってしまう。
あんまり家に馴染まれてたむろされるのも良い傾向ではないとは思うけれど、そこらへんの境界はあんまりつけたくもないし。
「あの、お兄さん。お姉ちゃんからケータイ見てって連絡が来たんですけど」
杏にスマートフォンの画面を見せつけられる。
こんな時間に? そういえば、スマホは部屋に放置したきりだった。
杏に連絡するともなれば急ぎであることは確かなので、すぐに二階に向かうことにした。
◇
「……こんな時間にどうしたの?」
『あ、先輩。こんばんは』
言ってた通り先輩か。
また昨日のことを思い出す。
はるくん、と呼んでほしいのではなくて、二日間で変に慣れてしまったのかもしれない。
「こんばんは」
『杏が迷惑かけたりしてませんか?」
「杏はいい子にしてるよ」
『ふー、それは一安心、ですね』
口調は整った敬語のままらしい。
「んで、どしたの」
『もー、先輩! 今日電話するなんてあれしかないですよ』
「……あれ?」
『十七歳の誕生日、おめでとうございます。
電話じゃなくて直接言いたかったですけど、祝う気持ちは同じですよ』
「ああ、うん。……ありがとな」
『ほんとは私も先輩のおうちに行きたかったですけど、ごめんなさい』
「……うん、でも嬉しいよ」
『……えへへ、そうですかー。
今日は私以外にも祝ってもらえましたか?』
「うちに来た人には、あと姉さんとゆかりさんにも」
『そうですか』
「うん」
『……また一個離れちゃうのは悲しいですけど、私も嬉しいです。
それに、先輩の誕生日を最後に祝えたので、もっと嬉しいです』
「最後?」
『あの……えっと、時計見てください』
耳から離して、時刻を確認する。
二十四時、もう日付が変わっていた。
たしかに最後だけれど、そんなに嬉しいことなんだろうか?
「もしよかったらだけど、今日うちくる?」
『……泊まり、ですか?』
「さすがに立て続けに外泊はまずいか……」
『いや、いいですよ。杏もまた泊めてくれるんですよね?』
「うん」
『おっけーです。じゃ、また連絡しますね』
「うい」
電話が切れる。
昨日のことを訊いていいものか、どうにも悩ましい。
夜のこと。
俺の事情を少しでも知った上で、なぎさがどのように接してくるか見当もつかない。
どうしてそこまで俺のことを考えてくれるのか。
どうしてこんな俺に愛想を尽かさないのか。
……どうして、差し出した手を握り返してくれるのか。
シャワーを浴びて考えを整理しようと思って、ドアを開けると、目の前に千咲が立っていた。
「なにしてんの?」
「……なんでもないです」
リビングでいた彼女とは、様子が変わっている。
朝にうちに来たときのようだ。
「なぎちゃんと、何の話してたんですか?」
「明日うちに泊まるって話」
「……そうですか。で、来るんですか?」
「うん」
「楓ちゃんも帰ってきますし、賑やかで楽しそうですね」
千咲はやわらかく微笑む。
でも、目が笑っていないようにも見えてしまう。
「コウタの弟も来るって」
「へえ、そうですか」
ドアを閉めて外に出る。
突然ため息をついて俯いた千咲に腕を掴まれる。
この前の再現。
……言わなきゃ。仲直り、なのかはよくわからないけど、とにかく口に出さなきゃいけない。
「千咲……その、さ」
「はーくん」
遮られる。
「なに?」
「……どうでもいいですよ」
腕を、そっと外される。
「どうでも、いいです」
「……」
「はーくんが何を思ってても、どうでもいいです」
何を言いたいのかがわからなくて、俺は彼女の言葉に反応できない。
「……これからは、私も好きにしますから。
私はもう寝るので、おやすみなさい」
そう言って、ふふっと笑ったあと、彼女は隣の姉の部屋に入っていった。
そしてすぐに、その部屋から話し声が漏れ聞こえてくる。
……意味がわからなかった。
態度の急変。
でも、二人きりじゃないといつものように接してくる。
断片的な言葉。
俺の考えてることはどうでもいい……どういうことだ?
とにかく、千咲の言いたいことが、なにもわからなかった。
◇
あくる日、俺が目覚めたのは昼過ぎのことだった。
和室に移動した俺たち二人は、ほぼ無心でゲームをし続けた。
魔界村の二周目を終えたあと、対戦ゲーだったりRPGを挟んだりしながら結局六時過ぎまで起きていた。
足もとにはエナジードリンクとお茶パック、おつまみ類が落ちている。
起き上がって周囲を見てもコウタの姿はない。
一階に降りると、みんなはもうリビングで駄弁っている。
姉はうちに帰ってきていて、ゆかりさんはどうしたの、と訊ねると、どうやら朝に送られてそのまま車で帰っていったらしかった。
吉野さんと杏は依然としてテレビゲームに夢中で、千咲と姉はパソコンで何かの動画を見ていて、コウタは新聞を読んでいる。
無法地帯っぽい。
「新聞のチラシを見ました」
コウタが声を上げる。
「なんでも、明日近くで花火大会があるらしいではないでしょうか」
注目の的になっている。
明日なんだ、まったく気にしていなかった。
「行きましょう」
な? ハル? と同意を求められて、昨日の彼との会話を思い出してしぶしぶ頷いた。
「さんせーい」
「私も行きます」
吉野さんと千咲が次々と賛同する。
「楓さんも行きますか?」
「あ、いや……」
なぜか俺のことを見られる。
俺の許可なんて必要ないだろうに。
「いや、私は行かないよ。ごめんね、コウタくん」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
どこか形式めいたやりとり。気にしすぎか?
杏も、人混みがあまり好きではないから行かないと言っていた。
……その気持ちわかるわー。祭りではただでさえ人が多くて騒がしいし、なかでも子ども連れが危なっかしいし。
そういえば、ほぼ初対面(うちに遊びにきた時に面識があるくらい)なのに、お互いフレンドリーな感じだ。
なんつーか、馴染むのが早いというか。
一日の半分を惰眠によって無駄にしたものの、あまり悪い気はしない。
俺以外の人たちはすでに昼食をとったようで、午後からどこに行きたいかを話している。
それを横目にピザを食べながらぼーっとしていた。
食べている最中、千咲に話しかけられる。
普通の様子で。もう何が何だかわからない。
とりあえず話を聞いていてわかるのは、コウタと千咲が乗り気だということだ。
遊びに行く、と言ったってどうせアーケード街に行くか学校の近くまで行くんだろうし、あまり気乗りしない。
最終的にうちに帰ってくることは決まっているから、俺が無理して外出する必要性もあまり感じないし。
「ハルは行きたいとことかある?」
「ない、だるい」
明日の予定まで決められては、少しでも自分の時間が欲しくなる。
撮りためていたビデオを観るとか、課題を最後まで終わらせるとか、はたまたもっと寝るとか。
外の空は嫌なほど快晴で、クーラーの効いたこの部屋から出ることが嫌になるのも無理はない。
なんて、誰かに向けて弁明のようなものを考えてみるけど、
つまるところ、面倒だ、の一言で片付けられるものだ。
結局、賛成多数で街のゲーセンとかそこらへんをぶらぶらするということになったらしい。
みんな夏のテンションだ。ついていけない。
「はーくんほんとに行かないんですか?」
「うん」
食後のアイスを食べて、輪から離れてぐでーっとする。
姉にぺしっと叩かれて、お客さんがいるのにそんな態度でいちゃダメでしょ、みたいなことを言われたが、聞き入れずにそのままでいた。
テレビを観ているうちに、段取りやらなんやらがいろいろ決まっていって、夜は焼肉を食べようとなったらしい。
折半なら別にかまわない。焼肉、そのワードだけで心踊る。
チャイムが鳴って応答すると、小麦色に焼けた肌の小学生くらいと思しき男の子が出てきた。
コウタの弟らしい。名前はユウヤくん、クソガキ感はあまりない。礼儀正しい印象を受ける。
兄譲りのコミュ力か、それとも他の人たちが気さくなのか、ユウヤくんはすぐに周囲にとけこんでいる。
仮に俺がその歳で、年上の女の子がいっぱいいたら、緊張して何も喋れないと思う。
ほら、姉さんとか超かわいいし。なんで姉さんが出てきたんだろう。
「じゃあ、俺ら出かけてくるから」
会話もそこそこ、もう出かけるらしい。
その場に残ったのは、杏と俺の二人。
というわけで、家に残る二人で食材諸々を買いに行くことになった。
「別に残らなくても良かったんだぞ?」
荷物を持ってくれる人が多いと助かるけど、みんなで行くなら杏も行ってくればいいのに。
「え……もしかしてわたしお邪魔ですか」
「そういうわけじゃない」
会話の裏を読みたがる癖は姉妹揃ってらしい。
「ほら、ユウヤくんとか一個違いだから話も合うかなって」
「わたし中学生ですよ?」
「……まあ」
そう言われると、そうではあるが。
一歳差。姉と俺も一歳差だ。
中学に上がった姉が急に大人に見えたことを思い出す。
あの頃は姉が友達を連れてくることもそれなりにあった。
そのときに来ていた人たちと今でも交流があったりするのだろうか。
「杏は中学校楽しい?」
「それなりには」
「なんだ、それなりって」
「可もなく不可もなく?」
「そのセリフ、なぎさが言いそう」
「バレちゃいましたか」
「いや、てきとう」
気にしてるみたいで恥ずかしいし。
「なんか食べる?」
「お菓子たべたいです」
二人で麦茶を飲みながらお茶菓子を食べる。
日本の夏っぽい。完全な主観。
マジでクーラーって最高だな。
と思いつつ、また机の上でぐでーっとする。
杏も同じように真似してきた。
悪い大人でごめんな、でも怠くて仕方がない。
テレビをかけながら話したり漫画を読んだりしていたら、向かいに座る杏はすやすやと眠りだした。
寝顔を見ると、さすがに少しずつ違えども、なぎさと似ている。
目元とか輪郭とか。
はあ、とため息をつく。
立ち上がって、自分の部屋と和室の掃除をすることにする。
イヤホンをしながら掃除機をかけたりゴミを片付ける。
洗い物もしなくちゃな、と思ってシンクに置いたままのお皿を洗う。
大人数で泊まるなら布団の準備が必要だ。
なぎさが俺の部屋で寝るようなことがないように、というか俺ら男三人で部屋を使えばいいのか。
姉の部屋に布団を二つ運びこむ。
きっと足りるはず、言わなくても一緒の布団に寝たりするだろ。
一通り済ませて、ソファに寝転がってドラマの録画を眺めていたところでインターホンが鳴る。
案の定なぎさが荷物を抱えてやってきた。
「いらっしゃい」
「ういっす」
「なんか久しぶり」
「そうかもしれない……です」
語尾が不安げ。
「あ、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
リビングに招く。
ケーキを買ってきたと言うので、受け取って冷蔵庫に入れる。
「寝てますね」
なぎさが杏の髪を撫でる。
「ついこの前までランドセルしょってたのに、成長を感じますよ」
「寝てるのに?」
「まあ、いろいろです」
「そっか」
「みなさんは?」
「遊びにいった」
「……あー、疲れました」
そう言いながら、なぎさは杏と同じように机に上半身を倒す。
「外暑かった?」
「いえ、もう日も暮れてるので。
それに……あっちのほうが暑かったですよ」
「それもそうだな」
「……ぁー、クーラー最高ですね」
上半身はそのまま、机の下で足をバタバタと動かす。
落ち着きがない。
「くつろぎすぎ」
「……だめ?」
「いや、いいけど」
寝そべりながら退屈そうに手足をわしゃわしゃと動かしている。
そういえば忘れてた、と思って麦茶をグラスに注いでなぎさに出した。
「ありがとうございます」
「うい。ここで寝かせておくのもあれだし、杏のことどっかに運ぶ?」
「このあとの予定は」
「買い物」
「じゃあ起こしましょう」
背中をていっ、と叩くと杏はすぐに目覚めた。
「……あれ、わたし……。
あ! ごめんなさい、寝ちゃってました」
「杏、おはよ」
「お、お姉ちゃんもう来てたんだー……」
「今来たとこだよ」
椅子から立ち上がった杏に、一度洗面所に顔を洗い行くように言う。
「夜ごはんは焼肉」
「バーベキュー?」
「うちに網とかないし、ホットプレートかな」
「持ってきましょうか?」
「いやいいよ、面倒だろ」
「そう言うと思いました」
グラスの中の氷がからんと落ちる音がする。
俺も同じくだらだらすることにした。
彼女の方へ手を伸ばすと、すぐさま手のひらをとんとんと押される。
スキンシップ。
……でも、そこまで近いわけでもないし。
しばらく堪能していると、なぎさの手がふっと離れた。
「あー! イチャイチャしてる! お姉ちゃん!」
杏が戻ってきた。
「してない」
「お兄さんと手を絡めてたじゃん!」
「……見間違い」
否定する必要はあまりないと思う。
「そういえばわたし、お母さんから伝言を受けています」
「なんて?」
「お姉ちゃんとお兄さんが旅行中どんなイチャイチャをしたか訊いてこい、と」
ミヤコさん……。
「お姉ちゃんに訊いても教えてくれなかったから、らしいです」
なぎさを見る。
すごい勢いで首を横に振る。
「なにもしてないよ」
「嘘ですね、お姉ちゃん?」
「してない」
「……えー、でも」
「でも?」
「わたしから見て、二人がもっと仲良くなったように見えるから、なんかあったのかなーって」
仲良く……。
なぎさと目を合わせる。
真っ赤な顔を手で覆って、杏の肩をばんばんと叩く。
「い、いたっ……。いたいよお姉ちゃん」
「……杏がわるい」
「まあ、わたし的にはお姉ちゃんのその反応だけで満足だよ?」
「……うるさい」
俺も俺でいろいろと思い出して、少し恥ずかしくなる。
よくさっきまでなぎさを見て普通に思えてたな、というぐらい。
「ま、まあ……お母さんには秘密にしとくね!」
大丈夫だよ、お姉ちゃん! と、杏はなぎさに笑いかける。
実はこの子、天性のSの素質があるのかもしれない。
いつもと立場が逆転しているみたいで微笑ましい光景。
掛け算は逆転不可。んなことはない。
「お兄さん、そろそろお買い物行かないとじゃないですか?」
「……そうだな、なぎさも行くよな?」
「もちろん行きます」
「じゃあ、もう出るか」
◇
ありったけの肉と野菜、それから飲み物お菓子なんかを買って帰宅すると、すでに遊びにいった人たちは家に集合していた。
みんなの様子からしてかなり楽しめたみたいで、ちょっとほっとする。
俺が行ったら怠さで士気を下げかねなかったし。
はたから見ると男二人女三人の集まりってどうなんだろうか?
街で見てもあまり気にしないとは思うけれど、ゲーセンとかにいたら、大家族?
すぐにホットプレートやらを準備すると、コウタがたこ焼き機を持ってきた。
「食べます」
「材料は?」
「ある」
「てかそんなもんうちに有ったんだ」
「転がってた」
なんだそれ。
姉が白ごはんの準備をして、各自肉を焼いて、野菜とともに食べる。
なんか知らんけど、思いつきでユウヤくんにどんどん肉をまわしていくと、すべて食べていた。
兄弟揃って食欲の権化らしい。
たこ焼きで白ごはん。炭水化物パラダイス。
「こういうときにお酒があればなー」
コウタが呟く。
「なに、飲むの?」
「いや、たとえ話。お前も飲まないだろ」
なんかデジャブな気がする。
いろいろと、仕方ないし気持ちもわかるけど。
「俺お酒飲んだことないし」
「え」
「……なに?」
「いえ」
なぎさの反応をすぐ制する。
もう酒なんて飲みたくないし、あの時のこともできるだけ思い出したくない。
「そういえば」と、千咲が何かを思いついたように声をあげる。
「わたしと、はーくんと、コウタくんと、綾ちゃんで、明日花火大会に行くんですけど、なぎちゃんも来ますか?」
「……え、っと。楓さんは?」
「私は行かないよ」
「杏は?」
「わたしも」
ちらりと俺の顔をうかがう。
そして、千咲のほうを向く。
「……じゃあ、私も行きません」
「そうですか、残念です」
「多分、その時間バイト入ってましたし……楽しんできてくださいね」
「はい」
それきり会話が切れたのだけれど、ほんの一瞬だけ姉から意味ありげな視線を送られた。
肉を焼く。食べる。たこ焼きが飛んでくる。それも食べる。
あんまりガツガツいくのもよろしくないけど、食べきらないといけないし、仕方がない。
テレビでは心霊番組がかかっていて、杏とユウヤくんがガチでビビっている。
千咲は意外にも大して気にしていないようだった。
ほどほどに食べ終えて、女たちは食後のデザートを食べて、部屋から持ってきた人生ゲームやらトランプやらで盛り上がっている。
片付けを始める。どうにも買ってきた量が多すぎたようだ。
コウタと俺とユウヤくんで残肉処理をする。
腹がいっぱい。最近食べてばかりだ。
運動しなきゃ……。
「ユウヤくんは」
「ユウヤでいいですよ」
「……ユウヤは肌焼けてるけど、野球とかやってるの?」
「クラブは、バスケをやってます」
バスケかー。
「……俺も少しやってたんだ」
「兄ちゃんもやってましたよ」
「兄ちゃん?」
「え、兄ちゃんっすよ」
コウタを指差す。
「まじ?」
「うん、言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「私は知ってましたよ」と千咲が会話に入ってくる。
聞いたことがない。マジで。
「ミニバス?」
「いや、中学も」
「え、は? ほんとに?」
「ついでに言うと、新人戦の三回戦で対戦した」
「……」
コウタの出身の中学とやったけど。負けたけど。
「もっと言うとお前マークしたの俺」
「へ、へえ……」
いや、はあ……。
まあ、相手チームとか覚えてる方がおかしいけど。
つーか、あの中学校って県でも結構いいとこまで行ったんじゃ。
「なんで高校で続けなかったの?」
「それは、おまえだってそうだろ」
「……」
いや、そうだけど。
俺の場合続けるも何も途中で辞めたから合ってるかわからないけど、意味としては合ってる。
「あの、俺なんか変なこと言っちゃったっすか?」
ユウヤくん……ユウヤが、心配そうな顔で俺とコウタを交互に見る。
「……いや、そんなことないよ」
「まー、この話はもういいよな?」
「……うん」
俺もあまり触れてほしくないから、話を打ち切られたのは幸運だったかもしれない。
本当に、コウタがやってた部活はサッカーかなんかだと思っていた。
体育の選択授業だってバスケでなく俺と一緒にサッカーだったし、バスケが関係するような会話をした記憶は一つだってない。
「気を取り直して、スイカ食べようぜ!」
コウタがテンションを戻す。
「スイカあります! 食べましょう!」
なぎさが向こうからスイカを持ってくる。
台所で切ってくれていたらしい。
みんなで窓の方へ、外へ移動して、スイカを食べ始める。
夜風がなびく。もやもやする。
たくさんの人と一緒にいて、楽しいはずだけど、性懲りもなくもやもやする。
ちょっとトイレに行く、と言って部屋から出ようとすると、千咲に引っ張られて呼び止められた。
「どこに行くんですか?」
「……いや、トイレ」
「さっき行きましたよね」
「お腹ゆるい」
「……嘘ばっかり」
勝手に嘘認定されても困る。
「いや、普通に食べ過ぎたし」
行動を制限されても困る。
「はあ……じゃあいいですよ」
「どうしてそんな怒ってんだよ」
「わからないですか?」
「……」
「……」
人の気持ちなんてそう簡単にわかるかよ。
「はーくんにはわかりませんよね」
「……だから、何が言いたいんだよ」
「……どうせ、私のことなんてたいして考えてなんかいないんですよね」
「……」
窓側にいた杏に心配そうな目を向けられる。
幸い窓は少ししか開いていないから、会話は聞かれてはいないだろうし、他の人は庭で遊んでるから気付いていないだろうけど。
「……まあ、いいですよ」
「……」
「黙ってるなら、何したっていいですよね」
ぞわっと背筋が凍るような感覚を得る。
……何したっていい。俺はその場で固まる。
でも、特に何をしてくるということもなかった。
やがて、外からみんなが戻ってくる。
誰かが持ってきた水鉄砲で遊んでいたらしい、みんなびちょびちょだ。
姉に呼ばれる。濡れていない。
吉野さんと杏が先に風呂に入るというと、千咲も俺の横をするすると歩いてそれについていった。
二人で二階の廊下に行く。
「ねえ、ちーちゃんの様子おかしくない?」
「……いや」
「今なんて言われてたの?」
そう言われても困る。
俺だってわからない。
「なんにも」
姉にまで嘘をつく始末。やってらんない。
「……私から話しようか?」
「いいって」
「でも、ハル……」
「……」
「さっきのなぎちゃんへのだって」
「……わからないけど、元はといえば俺が蒔いた種ってことだろ」
「……」
「……なんとかするよ」
また荷物が増えたような感覚。
でも、こればっかりはどうしようもない。
◇
どんどん積み重なって行く問題の多さに唖然とする。
繰り返し。その続き。付け焼刃。
浮かんでくる言葉はそんなものばかりだ。
中庸、というか、中道で生きるということが自分には無理らしい。
必ずどちらかに傾倒してしまう、ブレブレの自我、それを隠すために予防線を張る。
わかりやすく言う。自分に自信がないんだ。
なぎさと二人でいたときのことを思い出す。
落ち着いていた、安心していた。
不安感が消える。でも、それも一過性のもので、また不安が生じてくる。
悪い傾向。今すぐにでも二人きりで会って話したいと思うのも、そうなのかもしれない。
コウタとユウヤを部屋に連れてきて、そこで駄弁りながらゲームをしたり漫画を読んだりする。
ユウヤは普通にいい子で俺の小学生時代よかよっぽどちゃんとしているような印象を受ける。
「なあ、明日のことだけどさ」
「花火大会」
「ああ、うん」
「一応午後からやってるみたいだけど、どうする?」
「コウタは?」
「荷物あるし、朝に一旦家に帰ってからまた来るつもり」
「そのまま会場にってこと?」
「そうそう」
「てか、お前ら二人で行けばいいんじゃないの。
わざわざ俺と千咲で邪魔する必要はないだろ」
「それは……ハルもわかるはずだ。
片桐さんも行きたいって言うなら、そうするしかないだろ」
「……」
「それとも、そこまでして行きたくない理由があるのか?」
そう言われて、理由を探す。
けれど、考えても、どれも納得させるような根拠を持っていない。
「……じゃあ、来るべきだと俺は思うな。
おまえ、よく言ってたじゃん、『そういうんじゃない』って」
「なら、大丈夫だろ」と、コントローラーを握りしめ、俺に背中を向けたコウタが言う。
俺は返事をしない。
二人に、この部屋適当に使っていいから、と言ってリビングに降りる。
食べ過ぎによる満腹感も、生じた閉塞感も、少しずつ消え失せ始めていた。
俺が降りてくるのを狙っていたかのように、お風呂上がりのなぎさがソファに座っている。
湯あがり、薄着、ちょっと透けてる。
ぷしゅっと炭酸飲料の缶を開ける。
乾杯。もう日付が変わっていた。
「もうみんな寝てた?」
「はい、ぐっすり」
「ならよかった」
「……なんというか、夜が短かったですね」
「ペースが速いな」
「いろいろ騒いじゃって申し訳ないです」
「……ほんとに思ってる?」
「えー、思ってますよ」
「どうだか」
はい、と手を出される。
一瞬何のことだ、と考えたけれどすぐに気付く。
彼女の手を握る。自分から。
「考えすぎは禁物ですよ?」
「ああ、わかってる」
何がだ。
しばらく無言で手を繋いだままでいる。
だんだんと彼女の身体がこちらに倒れてきて、距離が詰まっていく。
「そういえば」
「そういえば?」
「みたらし」
「みーくんは、一晩くらいなら大丈夫ですけど」
みーくんってなんだ、かわいいじゃねえか。
「ちゃう」
「イントネーションが違いますよ」
「関西住んでたことあんの?」
「まあ、少し。で、何が違うんですか?」
みたらし。犬、撫でたい。昨日も撫でたけど。
一人暮らしで動物飼ってたら一日中見てられると思う。
姉は猫好きだし、千咲は猫を飼ってるけど、俺はあまり猫には懐かれない。
「なんだっけ」
「思いつきですか」
「そうだっけ?」
「眠いんじゃないですか」
「そうかも」
「じゃあ、寝ましょうか」
そう言って肩に頭を乗せてくる。
いい匂いがする。風呂上がりの魔力、再び。
全然気にしていなかったけど、サイズのかなり大きいTシャツを着ているから、下を履いてないように見える。
つまり生足。暴力性が強い。
下着の色は薄黄色。変態だ(偏見)。
「太もも触ってもいい?」
「冗談?」
「……冗談」
駄目みたいだ。
まあ、本気にされても困るけど、と思っていると、なぎさは何か思いついたみたいな顔をした。
「あー、今日は抱き枕がないから寝れないなー」
斜め上を向いて口笛をぴゅーぴゅー吹く。なんだか滑稽。
「……あー、抱き枕だったらどさくさに紛れて太ももを触られても文句は言えないなー」
「急にどうしたの」
「抱き枕が、って、なんですか、触りたくないんですか」
「ぬいぐるみ貸すけど」
「いやっ、寝ましょうか、寝ちゃいましょう」
手元にあるリモコンを操作して部屋の電気を消す。
抵抗はしない、したところで、どうにかなるわけでもない気もするし。
「あ、俺豆球がいい」
「はーい」
すぐに抱きついてくる。
そのまま倒れ込む。なんか変態っぽい。
「いけないことしてるみたいですね」
「してるじゃん」
「私としてはしてないつもりですよ」
「その発言ビッチっぽい」
「ビッチ?」
「……いや、うん。忘れてくれ」
それから少し途切れ途切れの会話をしたあと、なぎさは眠りについた。
あたりまえだけど、俺はあまり寝付けなかった。
◇
次の日の午前中は、朝早くからなぎさと一緒にバイトだった。
なぎさと杏と三人で家を出て、みたらしの散歩をした。
俺ら三人以外はまだ寝ているらしく、姉に書き置きをしておいた。
杏曰く、吉野さんと千咲は着替えとかを多めに持ってきているから家には戻らない、らしい。
セミの声が聞こえる。
今日も気温が高く、暑い。
空を見上げていると、花火大会の開催を知らせる段雷が数発鳴る。
バイト終わったあとどうするの、と訊くと、一回帰ってから夜にうちで残った四人で何かをして遊ぶ、と返ってきた。
店に行くと毎度のことお姉様系先輩がいて、随分と暇そうにしているので声をかけることにした。
「ひまですか」
「ひまー」
「ほら、今日花火大会が」
「行かんよ。きみは行くの?」
「まあ」
「なぎさちゃんと?」
「いや」
肩に手をポンと置かれる。
同情された気がする、なぜだ。
「そういえば、この前のってどうなったんですか?」
「……あー」
反応が悪い。
「まー、断ったんだけど」
「さすがですね」
「えっと、意外とそのままで、グループが瓦解するってこともなくってね」
「おお」
「なんかなー、杞憂だったっていうか……」
「……ま、よかったじゃないですか」
一安心。
自分となぎさで決めたわけではないけど、何かあったら嫌だし。
まず中途半端な振舞いはしないような人だけど、うん。
バイトが終わって、暇をもてあます。
とりあえず、なぎさと昼飯を食べて、家に送り届けてから、自分の家に帰宅する。
姉と吉野さんと千咲がリビングで談笑しているのをスルーして自分の部屋に戻る。
少ない時間でやることも思いつかないので、課題を開く。もう添削をすれば終わりというところまできた。
昨日食べずに余ったお菓子を持ってきて、ファンタと共に食す。
あー、と口に出してみる。
あー、あー……。
スマホを取り出す。すぐに飽きてベッドに投げる。
電源がつかなくなる。
ただの電池切れだった。
トイレに行こうとすると、吉野さんと遭遇する。
「先どうぞ」
「いや客だし、吉野さん先でいいよ」
こうして二人きりという機会はあまりないから、緊張する。
何回も同じ屋根の下に泊まった仲だけどね(意味が違う)。
自然と雑談のようなものにシフトして、今日の集合時間だとか、千咲も吉野さんも浴衣で来るだとかを話された。
私は先に出るからちーちゃんと二人で会場まで来てね、らしい。
「あ」とトイレのドアに手をかけた吉野さんが口を開く。
「今日もし告白されたらどうするの?」
「……なに、いきなり」
「ちーちゃんに」
「ありえないでしょ」
「いや、可能性としてはあるかもじゃん」
「吉野さんそういうキャラだっけ」
「私のキャラを知るほどそんなに関わってないと思うよ」
そりゃそうだ。
「で、どうするの?」
「……どうって言われても」
「受けるか断るかしかないでしょ」
「……」
千咲からの好意は感じている。普通に気付いている。
だからこそ、告白はされたら困る、と思う。
「困る、かな」
できるだけテンションを下げずに応答する。
そんな様子が、吉野さんは気に入らないかのように、一歩距離を詰めてくる。
「……あのさ」
吉野さんの声のトーンが落ちる。
怒られる、と思う。
やっぱり、嫌なことは避けて通れない。
「アンタはさ、繰り返す気なの?」
「それは」
何を、とは訊くだけ野暮だ。
自分だってわかっている。
「……一年半だよ、一年半。ちーちゃんが、アンタと話さなかった期間。
あの子は話すのがあんまり得意じゃないし、私も口を挟むのは控えてた、当人間の問題だと思ってた」
「……」
「高校に入学してから半年、あの子はずっとアンタのことを見てた。
……二学期になって、また話せるようになって、昔みたいで嬉しいって、ほんとに幸せそうな顔をして私に言ってきた」
「……」
「何があったのかは知らないし、無理やり訊いたりはしないけど、それでも、女の子に対してこういう仕打ちをするなんて間違ってるって自分で思わない?」
諭すような声音。
頭にすうっと入ってくる言葉。
見つめ直さなければいけないこと。
「離れたと思ったら、また近くにいって、それでまた離れようとする。
アンタのやってることは、最低なことだよ」
「……何が」
「は?」
「俺の、何がわかるの」
そんなこと、他人に言われる筋合いなんてこれっぽっちもない。
でも、理解されないこと、言及していないことを相手に求めるのは酷な話だ。
吉野さんはそんな俺の態度がまた癪に触ったのか、苛立ちを隠せない様子でため息をつく。
その様子を見て、俺は少し萎縮する。
「アンタはさ、前から思ってたけど、何を言っても八十点くらいの返答しかしてこないよね」
「……」
「そういう、勘違いさせるような中途半端な態度が他人を困らせてるって自覚しなよ」
「……」
「ちーちゃんを縛りつけるのは、もうやめなよ」
◇
わかっている。
……わかっている。
珍しく雪の積もった冬の日。放課後の学校。全て覚えている。
嘘をつかれた。そして、嘘をついた。
でも、それだって自分に気を取られて千咲のことを気にかけなくなっていた俺が悪い。
一度ついた嘘はつき通そうと、進学してからもそのまま無視していればいいと思って、レベルの高い高校を受験した。
入学式で、千咲が同じ高校にいるのを見た。
同じクラスだった。俺から話しかけなければならないと思った。
嘘をついたことを謝りたかった。
でも、その度に、そう考える度に、やめろ、と心の声が騒いだ。
俺は最低で、最悪で、関わった人はみんな離れていく。
そのまま平行線でいるなら、俺も、千咲も、これ以上苦しむ必要なんてないと、そう思うことにした。
だから、千咲が何食わぬ顔で俺の部屋に来たときは驚いた。
泣き出してしまいそうなくらい、というと言い過ぎかもしれないが、そのくらい、嬉しく感じた。
初めはあの日の変わりない日常が戻ってきたと錯覚して、気分は高揚していたのかもしれない。
──けれど、結局のところ俺を取り巻く環境は変わらない。
最初から最後まで、嘘だったのだから。
影に追いかけられているような感覚。ずっと俺は逃げ続けている。
思い返してみると、高校に入ってすぐにバイトを始めたのも、千咲と一緒にいると申し訳なく思うのも、父親に対して反感を持っていたのも、俺なんて、と思うことも。
俺の思考全てが自己憐憫に起因するものだった。
本音が言えなくて、駄々をこねるように怒りを自分の中に溜めて。
だから、いつも俺の視界は曇っていて、物事をまっすぐと見ることができなかった。
それで、どうする?
謝る。許される。
でも、罪悪感は残ったまま消えない。
ゆかりさんに言われたことを思い返す。
シンプルに考えよう。
シンプルに、あくまでシンプルに。
◇
十七時になって、一度家に戻って浴衣を着た千咲がうちにやってきた。
見るからにはしゃいでいる様子で、下駄を履いているのが危なっかしい。
「それじゃ、行きましょうか」と声をかけられる。
家に残る人たちから、いってらっしゃい、と言われる。
会場に着くまでの時間はやけに短く感じた。
考えるのはやめようと思った。
ピンクの浴衣をまとった千咲は、おとぎ話の世界から出てきた少女のようで、目にまぶしい。
浴衣を着ている姿を褒めて、と言われる。
自分で言うのか、という思考はすぐに打ち消して、ただ単純にかわいいと思ったから素直に褒める。
手を繋ごうと言われて、何も考えずに千咲の手を取る。
自分で自分が嫌になる。
昔二人で花火大会に行ったときの話をされる。
相槌をうつ。千咲は楽しそうだ。
今まで避けていた、駅前ではない方向に足を進める。
CDショップに行きたいときに自転車で行く以外、本当にそっち側に歩いて行くということがなかった。
周りにも浴衣姿の女の人。歩いて行く方向は同じ。
浮ついた空気を肌で感じ取る。あてられてしまいそうになる。
待ち合わせの場所で、コウタと吉野さんと落ち合う。
「来たんだ」と言われた。
屋台街の方へ談笑しながら歩いて行き、焼きそば、たこ焼き、りんご飴なんかを食べる。
あーん、してほしいと言われて、考えずにする。
夏の夜の空気。
も、あまり感じない。どちらかと言えば秋っぽい。日中は暑いのに。
空には月が出ている。
一点のかげりもない、満月。
人が多くて酔いそうになる。
いつの間にかコウタと吉野さんはどこかへ行ってしまって、千咲と二人きりになる。
チョコバナナを二つ買って片方を手渡す。
千咲はフランクフルトを二つ買ってきたようで、片方を受け取る。
同じようなものを、と思って一人で笑う。
スマートフォンを取り出そうとする。
でも、どうやら家に忘れてきてしまったらしい。
そんな俺の様子を見て千咲は何かを感じたのか、内カメでツーショットを撮ってきた。
もっと笑って、と言われてぎこちなく笑う。
写真は苦手だ。
頬をつねられて、ふっと我にかえる。
「顔色悪いですよ」
「……そうだった?」
何をしてるんだろ、と思う。
方向性を間違えている気がする。
「飲み物買ってきましたけど、ラムネ一本しかなくて」
「ありがとう」
飲みかけが欲しいと言われたが、さすがに断った。
「はーくん」
「ん?」
「あ……うあっ」
何かを言おうとして、俺の方を振り返った千咲がよろける。
そのまま倒れそうになるのを慌てて抱え込んで受け止める。
目の前に千咲の顔。唇が近くにある。
「……」
「は、はーくん」
千咲は頬をかーっと赤く染めて、しっとりと潤んだ目を閉じる。
腰に手を回すかたちになって、姿勢を整えた彼女が、背伸びをして俺の肩に手を置く。
そして、唇を近付けてくる。
「……大丈夫か?」
腰を後ろに逸らしてそれを回避する。
千咲は少し残念そうだった。仕方ない。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい」
危なっかしいから手を繋ごう、と千咲に提案する。
幅を取るから腕を掴む方がいいと言われて、まあいいか、と了承する。
「ねえ、千咲」
「なんですか?」
「さっき、何を言いたかったの?」
「……えっと」
ぎゅっ、と腕の締め付けが強くなる。
屋台街から外れたあまり明るくない場所は人があまりいなくて、立ち止まってても邪魔にはならない。
光の方を振り向いて、人の群れを眺める。
答えを待つ。でも、一向に答えは返ってこない。
「……戻るか」
こくり、と千咲が頷く。
そして、二人で前を向くと、彼女はばつの悪そうな顔をする。
彼女の視線の先には同世代くらいの見た目の男。
「千咲ちゃん、久しぶり」と言って男三人が近付いてくる。
腕にまわされていた手を外される。
俺も俺で、目を逸らす。
自分の思慮の浅さに呆れかえる。
どうしてこの可能性を考えなかったんだろうか。
周辺の状況なんてまるで考えていなかった。
「ハル生きてたんだ」
「……」
死んでたらよかったのかな。
「お前らまだつるんでたんだ、幼馴染だっけ?」
会いたくない相手。
気安く話しかけないでほしい。
「千咲ちゃん、こんなやつ放っておいて俺らと遊ぼうぜ」
そのなかの一人が言う。
三人とも、知っている。
「……はーくん?」
千咲に見上げられる。
一瞬で冷や汗をかくのを感じる。嫌な思い出がフラッシュバックする。
「……ごめん、俺帰るわ」
三人を完全に無視して、踵を返す。
嫌な気分は嫌な気分だ。
簡単に取り繕えるものではない。
おい、と呼び止める声がする。
でも、それも無視をする。
ここは地元で、中学校側で、俺らは高校生で。
考えればすぐにわかったはずなのに。
一人はバスケ部、他の二人は中三の頃同じクラスの奴だ。
きつくあたってきた奴。千咲を離そうとした奴。悪評を流した奴。
大通りに出たところでちらりと後ろを見ると、千咲が追いかけてきていた。
もやもやが止まらない。どうせ俺は……。
横断歩道、赤から青になって、俺は走り出す。
待って! と叫ぶ声が聞こえる。
でも、俺は走るのをやめない。
静謐な夜の街に、ひときわ大きな音がこだまする。
そしてその方向から、「いたっ……」という声がする。
振り向くと、千咲が足を抱えてうずくまっていた。
うわ、と思ってすぐに走って戻る。
最低だ、俺は。
「はーくん、足速いですよ」
えへへ、と俺に向けて笑う。
あのとき、どうにかして千咲の手を引いてその場から居なくなればよかったのだと後悔する。
「ごめん」
「謝らなくていいですよ、悪いのは私です」
「……俺が悪いよ」
「立ち上がらせてもらえますか?」
右足から血が出ている。
左手にも擦り傷がいくつかある。
「走ってたら鼻緒が切れちゃいました」
「ごめん」
「……だから、謝らないでください」
浴衣についた砂をぽんぽんとはらって落とす。
千咲はずっと歩きづらそうにしている。
はい、と言って屈む。
「自分で歩けますよ?」
「……いいから」
「……はーくんはやっぱり優しいですね」
「はやく乗れって」
「……わかりました」
千咲を背負って歩く。
体重が軽いからか、重いとは全く感じない。
「小学校のとき、よくおぶってくれましたよね」
「そうだっけ?」
「はい、私とろいから何もないところでよく転んでて、その度にはーくんが助けてくれてました」
「……うん、そんなこともあったな」
「この道も、いつも二人で歩いてました」
「うん」
「……はーくん」
背中に頭を押し付けられる。
ぎゅっと首に回されていた手にかかる力が強くなる。
首が絞まって息苦しい。
緩めて、とも言えない。
「……私たち、どこで間違ってしまったんですかね」
「……」
「私はいつも後悔ばかりです、中学校のときも、高校に入ってからも」
「……うん」
「はーくん」
何度も、名前を呼ばれる。
「……私は、」
千咲が何かを言いかけるのと時を同じくして、晴れた空を覆い尽くすまでの大きな花火が弾けた。
そして、次々と、大きな花火が上空に舞う。
オレンジ、ムラサキ、ピンク、ライムグリーン。
幻とも思えるほどきらきらとした光が視界に入ってきて、暗闇に映える花火をしばし見つめていた。
そのうちに、風が火薬の匂いを運んでくる。
千咲は花火が好きな子だったことを思い出す。
……どうして、忘れていたのだろうか。
「きれいだな」
「……はい。とっても、きれいです」
首だけ振り向いて彼女を見ると、まばたきと共に長い睫毛が揺れた。
「あの二人どうしてる?」
「……大丈夫だと思いますよ、二人ともしっかりしてますから」
「うん」
「……歩きましょっか」
そう言われて、また歩み始める。
「週末にですね、みんなで花火しようって、綾ちゃんと楓ちゃんと話をしてたんですよ」
「コウタもしたいって言ってた」
「……はーくんも、一緒にしますよね?」
「……まあ、誘ってくれるなら」
「嬉しいです」
「……ん」
「みんなで、楽しく花火しましょうね」
いつもより声が近くて、耳元で囁かれると、身体がぞわりと跳ねる。
千咲は後ろを向いて花火を眺めていて、俺は前を向きながら花火の弾ける音だけを聴いていた。
本当に、昔のことを思い出す。
姉と、千咲と、三人でよく遊んだこと。花火を見にいったこと。こういう夏の日に夜道を歩いたこと。
「不安なら、どっちかが舵をとればいいと思うんです」
「……なんの話?」
「こっちの話です」
ふふっ、と優しく微笑まれる。
「辛気くさいのは嫌なので、なにか歌でもうたってください」
「無茶振りすんな」
「じゃあ私が歌います」
「近所迷惑」
「……うるせー、です」
最後に特大の花火が上がって、その数十秒後に空発が鳴る。
そして、千咲は背中で好きな曲を歌い始めた。
そばで聞きながら歩いていると、うちの前まで到着するのがやけに早く感じた。
家の門を開けて、千咲を下に降ろす。
「ありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
「……身長が小さいと、こういうとき便利ですね」
「そうだね」
千咲は頷いて、名残惜しそうに手足をばたばたと動かす。
じゃあ家に入ろっか、と声をかけると、裾を引っ張られて止められた。
「はーくん、髪にゴミついてますよ」
手で視線のところの髪を触る。
何回か、でも、引っかかりのようなものはない。
「私が取りますから、ちょっと屈んでください」
「ありがと」
ちょうどいい高さまで腰を曲げると、彼女は俺の髪を触った。
「はーくんは」
「ん?」
「……油断しすぎですよ」
瞬間、唇に何かが触れた。
急に、家の扉が開いた。
出てきたなぎさと、目が合った。
◆
『お前さ、いいかげん千咲ちゃんにつきまとうのやめろよ』
「……無理して、近付いてこなくていいから」
『言わないだけで、迷惑がられてるのに気付かねーのかよ』
「……どうでもいいよ。俺に、もう関わらないでくれ」
◇
久しぶりに、家に姉と二人きりになる。
来訪者が家にいると落ち着かないけれど、いないならいないで、それもまた落ち着かない。
床に座布団一枚を持って寝そべって、昨日の夜のことを考える。
朝食は軽めのものをお願いして、それでもあまり食べられなかった。
麦茶を飲む。煎餅をかじる。
醤油の味が染みてるぜ、口が寂しくない。
昼までリビングでだらだらして、もう一度寝ようかと思ったけれど、姉が部屋の掃除に行ってしまった。
家にいてもどうしようもないので学校に行こうと考える。
チャリ。雨が降りそうな予感。折り畳み傘を持つ。
途中で、吉野さんから連絡がくる。
あのあとどうなった?
なんとなく既読をつけて、返信はしない。
漕いでいると、見知った顔を見かける。
無視しようとしたが呼び止められる。
女バスのマネージャーちゃんだ。
「学校行くの?」
「そっちは?」
「部活帰り。ちーちゃんなら、たぶんもうすぐ来るけど」
「うい」
引き返そうかな。
千咲にはあまり会いたくない。
避けるとか、そういうことじゃなくて、ちょっと、いろいろと整理できない。
「昨日花火大会行ったんでしょ?」
「……まあ」
「今日ちーちゃんすっごく元気良かったよ」
「へー」
なんだろう。
結局、遠回りして学校に入った。
野球部が校庭で練習をしている。
吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。
教室に入ると、クラスメイトが数人いて、課題やら雑談をしていたりする。
わりと話す友達に軽く挨拶を済ませて、自分の席で課題の添削をする。
結構、というか、かなり間違っている。
持ってきたぶんは終わってしまって、一人でいるのもあれだなあ、と思って、てきとうにぶらぶらすることにする。
雨が降り出す。
傘をさして歩き出す。
本屋に入って週刊誌を読む。
休載多すぎだろ、と一人でつっこむ。
ハーレム系漫画の新刊を買う。
なんで手に取ったんだろう。
家に帰ると、予想していた通り千咲が来ていて、三人で夕食を食べる。
ローストビーフ丼。グルメっぽい。
安売りされていたらしい。
このまま泊まるわけではないらしく、千咲は少し姉と話したあとすぐに帰っていった。
「つかれたー」
口に出る。
「何もしてないでしょ」
「呼吸してた」
「いや、そりゃあ息はするでしょ」
「空気が美味しい」
「生を感じる発言ですね」
「……はあ」
ソファに座っていたら姉が隣に座ってきた。
近い。けど、この前のなぎさよりは離れている。
漫画を読み終える。特番はあまり面白くない。
ゴールデンから下ネタを発するな、お茶の間を凍りつかせないでほしい。
「温泉の話聞かせてよ」
だる絡み。
「アルカリが凄かった」
「溶けそう」
「それ酸」
「理系っぽい」
「ウナギ湯って言われてるらしいよ」
「卑猥」
「どこが」
心と身体の疲労というか。
うまく調子が上がらない。
「ていうかさ」と、姉が口を開く。
「なに」
「ハルさ、ちーちゃんにキスでもされたの?」
「は」
「あれ、当たり?」
「……見てたの?」
「いや」
エスパーか。ミラクルなテレパシーか。
さいきっく楓、ちょっと違う。
「朝から、よく唇触ってるから」
言われて、自分の手の位置を確認する。
唇。
なんという無意識。
「……冗談のつもりだったんだけど」
姉が申し訳なさげな声音で言う。
リアルだから困る。
「まあ、まあ……あってるからなんも言えない」
「へ、へえー。キスされたんだー」
言われて思い返す。
「やわらかかった?」
「……覚えてない」
ほんの一瞬だけ。嘘。六秒くらい。
でも、千咲にキスをされたことよりも、目が合ったなぎさの方が気になっている。
……気がする。
なんだろうな。
門を開けて中に入ったのに、千咲はキスをしたあと自分の家の方へ歩いていっちゃったし。
残された俺となぎさは目を合わせて固まるし。
でも、特に何を言われるわけでもなく帰ってしまったし。
「……はあ」
本日通算十数回目のため息。
「元気だしなよ」
「元気だよ」
「ならいいけど」
「……はあ」
「わざと?」
「無意識」
「私まで気分が落ちる」
「謝罪」
ごめんって言おうとしたら謝罪と言ってしまった。よくあること。
今回に限っては悪いことはしてないけど。
「そういえばさ」
「なに?」
「姉さんと俺もたくさんキスしたことあるらしいよね」
「……」
無言でソファの端に移動される。
腕をクロスさせて身体を守る仕草をする。
「……いや、まて。俺は悪くない」
「ハルは覚えてないと思ってた」
「この前あっちに行ったときにゆかりさんが言ってた」
「ゆかりちゃん……」
「いやでも、口にじゃないって言ってたし」
「……若気の至りだよね、若すぎるけど」
姉の唇を想像した、というのは黙っておこう。うっかり刺されかねん。
「じゃあ、昨日のはファーストキス?」
「なんでそういう質問をするかね」
「お返し」
「実際よく覚えてないんですよ」
あの展望台で見た夢の続き。
あれが妄想ではなく現実に起きたことなら、初めてではない。
でも、それが誰とだったのかわかっていないし、小さい頃ならノーカンだ。
パピコを手渡される。
ホワイトサワー味。
蓋の部分を姉にあげる。
「……私ともしてみる?」
「なにを」
「キス」
「……からかってる?」
「うん」
「よせ、照れるだろうが」
「キスマスターの道が」
「拓けませんし、なりたくないです」
「はい」
コントか、これは。
「よし、姉さん」
「ん」
「今日は一緒に寝ようか」
「はーい」
「……」
「……え、別によくない?」
「本気?」
「約束したじゃん」
コントじゃないな、うん。
◇
そこから紆余曲折あり、姉の部屋で寝ることにした。
冗談のつもりだったんだけどなあ……。
自分で言ってしまったのだからどうしようもないし、悪い気はしないけど。
でも、こう……。
姉弟だし、それ以前に年頃の男女なわけで。
うちの姉は世界一かわいいし。
この表現はおかしいと自分で思わなくもない。
電気を消して、同じベッドに寝転がる。
「一昨日さ、なぎちゃんと寝てたよね」
「うん」
「好きなの?」
「その理屈なら姉さんも好きってことになるけど」
「私のこと嫌い?」
「……好きだよ」
「私も、ハルのこと好きだよ」
無邪気に笑って、身体を近付けてくる。
「あのね……お父さん、帰ってくるって」
「いつ?」
「みんなで花火する次の日」
「そっか」
タイムリミット。
今までのようになるか、何かが変わるか。
「あっちに行って、何か聞いたりしたの?」
「……いや?」
ゆかりさんに何かそれらしいことを訊いた、とも考えられるけれど、俺を通さずに口を割るとは考えにくい。
予想、或いは俺の様子から何かを感じ取ったか。
「でも、父さんと話したいことは決まってる」
「……そっか」
「前に進めてる、と思う。ちょっとずつだけど、俺も、姉さんも」
「そうだよね……うん」
「……だから、もう少しだけ待ってて?」
「ハルに言われなくても待ってるよ」
「お姉ちゃんだもん」と自信たっぷりな口調で続ける。
「頼りになる」
「でしょ?」
半分くらいの気持ちで頷く。
ほんの僅かにだけれど、姉の脆さが解消されたようにも思える。
「なので、ご褒美をください」
「撫でる?」
「さすがモテる男は違うね」
「いや、モテねーし」
「どうだか」
無言でわしゃわしゃ撫でた。
姉は猫みたいだった。
暗がりの中で、姉の嬉しそうに笑う顔をはっきりと見る。
たったそれだけのことで、俺は少しとは言わず、かなり、力をもらった。
◇
翌日は昼過ぎからバイトがあった。
なぎさとは入りの時間こそ同じだったものの、お盆明けのヘルプラッシュにより、俺だけ多く働かされた(了承したのは自分だけれど)。
お先します、と手をひらひらと振られる。会話はあったけど、多くはしなかった。
お姉様系先輩は朝から入っていたらしく、なぎさと一緒に帰っていった。
外気は少しずつ暑さが弱まり始めていて、ここら一帯も大行事の祭が終わったからか活気が薄れていっている。
飛行機雲に向かって手を伸ばしてみる。
夕焼け。雨は降りそうにない。
家に帰るとコウタ兄弟が来ていた。
ご馳走するぜ、と一枚肉を何枚か持ってきていた。
家にあったらしい。持ってきていいものなのか? と思ったけれど、解凍しちゃったと言っていた。
ついでにごはんも食べてく? というと、待ってました! みたいな顔で頷かれる。
兄弟どっちも料理ができなくて困り果てていたようだ。
四人での食後に、コンビニに行こう、という話になる。
夜道を歩く。どうやらこのまま泊まるつもりらしい。
「そんで、告白したの?」
「してない」
「なんで」
「いや、綾がずっとしかめっ面してたから」
「……ごめん多分それ俺のせい」
「……」
一部始終を話す。
最初は首をかしげられたけれど、最終的には納得してくれた。
「この前の話だけど」
コウタが口を開く。
「この前?」
「ほら、俺がバスケ部だったって話」
「あー」
気になっていた。
話してくれるなら、ありがたい。
ほら、話されたら俺だって多少なりは話す義理ができるから。
「おまえは知らないかもしれないけど、総体でも対戦したんだよ」
「……そうなんだ」
「まあ、圧勝」
コウタは手を挙げる。ガッツポーズ。ちょっとうざい。
「無理もないよな。メンバー見たらおまえいないんだもん」
「……買いかぶりすぎでは?」
「いや、秋にやったときのことは忘れたとは言わせないぜ」
なんだかコウタは饒舌だった。
「そんなに活躍したっけ?」
「ああ、鮮明に覚えてる。三十六点とられた、おまえ一人に」
「……いやまあ、それしかなかったし」
「うちの中学まあまあ強豪だから外部コーチで、マークの俺は滅茶苦茶怒られた」
「……御愁傷様です」
「だからハルのことはずっと覚えてたんだよ」
恨みか。でもちょっと嬉しい。
「で、総体で対戦したらいなくて。
引退して受験になって、俺らの高校の受験会場に行ったらおまえが近くにいたんだよ」
「ほう」
「んでおまえ、最初の自己紹介で中学で部活はやってませんでした、って言うし。
体育の選択バスケにしないし、バスケ部に入る気は毛頭ないみたいだったし」
知らないうちにいろいろ察されて心配をかけていたらしい。
「……まあ、ひとことで言えば、おまえが気になったんだよ」
「……照れるな」
「照れんな」
「うい」
「なんつーか、おまえは凄いやつだよ」
「褒めてる?」
「うん」
「……ありがとう」
コンビニで飲み物を奢られる。
どれでもいいぞ? と言われたから、モンスターをお願いした。
嫌がらせだろ! と言われた。
普通にそうだった。
二人でアイスをかじりながら歩く。
最近じゃ毎日のように食べている気もする。
「千咲にさ」
「ん? おう」
「キス、されたんだよ。んで、なぎさにそれを見られた」
「修羅場」
「そうとも言う」
笑われる。なんだか納得がいかない。
「おまえどっちが好きなの?」
「……まだ告白されてないよ」
「違くてね、おまえの気持ち」
「……どうだろう」
考えたことない。
……わけではないけど。
最近になるまで、あまり好意をぶつけられていなかったから、そのぶん動揺している。
今一度考えてみる。
なぎさ。千咲。
贅沢な悩みだ。
二人とも美少女。
どっちが好きとか、どっちが上だ下だとか、決めるべきなのかな、とも思う。
でも、ちゃんと二人を対等に考えられているんだな、とも思う。
距離が近くなった。
千咲は元に戻って、なぎさはぐぐっと急激に詰まった感覚。
頭を抱える俺を見て、コウタはまた笑う。
「穴で楓さんというのもある」
「あな?」
「大穴で杏ちゃんも」
「……競馬じゃないんだからさ」
「でも綾はやらんぞ」
「うわ独占欲、付き合ってもないくせに」
「うっせ」
「ていうかね、結構真面目な相談だったんだけど」
「最後決めるのはハルじゃん」
「……まあ、そうだけど」
つくづく他人に対してドライなやつだ。
「ついでに言うと、ユウヤは楓さんがお気に召したらしい」
「姉さんはダメだ」
「……それシスコン、独占欲」
「……はあ」
だって……ねえ?
ずっと一緒にいたし、姉さんとはこれからも一緒にいたいし。
これが独占欲なら、仕方ないとも思えてくる。
「ま、あれだ。明日何かが起こるといいな」
「花火するだけじゃないの?」
「……いや?」
「なにすんの」
「それは、行ってからのお楽しみということで」
そう言ってコウタはいきなり走り出した。
それを俺も走って追いかけた。
考えるべきことも、俺が追いついたものも、また問い直さなければならないことも。まだまだある。
それでも、今までのわからないことの多すぎる毎日よりは、ずっとマシなことなのだと、そう思った。
◇
朝早くから、ゲームをしよう! とコウタに叩き起こされた。
何か意図があるんだろうかと思ったけど、普通にゲームをしたいだけのようだった。
そのうち姉とユウヤが起きてきて、朝食を食べるまでずっと二人で話をしていた。
姉はやらんぞ、という視線を彼に飛ばす。
よく考えなくても俺は馬鹿です。
ゲームをしながらコウタと話す。
今日は夕方頃に河川敷に行って花火をしよう、ということらしい。
午後になったら買い出し、ロケット花火を打ち上げまくれ! なんか楽しそう。
姉が十時過ぎに塾に出かけて行って、家に男三人になる。
「ユウヤのチームは強いの?」
「まあまあです」
「夏の大会は?」
「ベスト8でした」
普通に強くてビビるな。
まず県大会に普通に出てるしね、なんだこの格差。
「ハルさんのとこは強かったんですか?」
「めっちゃ弱い。ミニバスはそこそこだったけど、中学はみんな初心者だったから」
そこそこ(県大会出場)。
「ほー……」
反応に困るよね、うん。
「キャプテンは?」とコウタが会話に入ってくる。
「……あいつは、まあ、経験者だったけど」
夏祭りの夜を思い出す。
久しぶりではあったけど、あいつはひとことも話しかけてこなかった。
どこの高校に行ったんだろうか、俺と違ってバスケは続けているのだろうか。
……あんま興味ないけど。
「おまえがキャプテンじゃないの意外だって思ってた」
「キャプテンとかやるガラじゃないし」
「だろうな」
じゃあどうして言ったし。
「コウタはどうだったんだっけ?」
「番号?」
「うん」
「十七番」
「なんだそれ」
「かっけえだろ? ちなみに俺はキャプテンだった」
「よくわかんない」
厨二病かなんかか。
対戦したっていう記憶しかない。
「まあハル、今度バスケしような?」
「やだよ、動けねえし」
「そう難しく考えんなって、答え合わせもしたことだしさ」
「……考えておく」
もうとうの昔にやめてしまったことなのに、やるからには負けたくない、と思うのが少し意外だった。
「思ったんだけどさ」
「ん?」
「俺ら、テストやばいんじゃね?」
「……なぜ?」
「いや、遊んでばっかだし」
今更気付いたのか。
「課題テストだから余裕だって」
「俺全部写して終わらせたけど」
「なるほど」
あの余裕はここからなのか。
普通、夏休みが終わる二日前とかに切羽詰まって写し始めるんだと思うけど。
計画的に解答を写すって聞いたことないな、彼らしいといえば彼らしい。
「ユウヤは宿題はもう終わらせたの?」
「あとは読書感想文だけです」
「兄弟でえらい違いだな」
「まあ、生まれ持った才能がコイツとは違うな」
四個も違う弟に誇るな。
コウタはなんでいつも自信げなんだろう?
昼になって、適当なものを作って出す。
夕飯の残りと既製品をちょっとアレンジしたものなのに、普通に喜ばれる。
男だけだと、あんまり気にすることもないし、多少雑でもバレなかったりする。
「俺も料理練習しようかな……」
「いいんじゃない」
「全能感を出したい」
「部屋の掃除とか自分でしないだろ」
「バレた?」
「まあ、予想だけど。コウタはそこからだな」
「……ハル、まじお母さん」
「お母さん?」
「母性を感じる」
感じないでくれ。
◇
家のインターホンが鳴る。
昼過ぎ。一日で最も暑い時間帯だ。
普段うちにくる人は滅多にいないし、姉は出かけていて千咲もこの時間は学校で部活のはずだ。
七海姉妹も来るなら俺に連絡を入れるだろうから、その可能性は考えにくい。
宗教勧誘やら訪問販売だと面倒だな。
無視するか、プレイ中だし。
「俺見てこようか?」
「……いや、いいよ。悪いよ」
もう一度インターホンが鳴る。
思わずコウタの方を見る。
「……お願いしていいかな?」
「あいよ」
「勧誘とかだったら、適当に今親いませんとでも言ってくれ」
「おっけ」
そわそわする。
やがて、コウタが早足でリビングに戻ってきた。
「どうだった? やっぱ勧誘?」
「いや、おまえにお客さん」
「……客? 誰だそれは」
「家の外に待ってもらってる」
「コウタの知ってるやつ?」
「いや……」と歯切れの悪い返事。
「多分だけど、さっき話してたハルの中学のキャプテン……だと思う」
「はあ?」
「よく覚えてねーけど、多分そう」
「……」
いずれにせよ、帰ってもらおう、と思う。
コントローラーをユウヤに渡して、ドアを開けて応対する。
いかにも部活帰りのような姿で、そこに彼は立っていた。
「よう」と言って、彼は手をあげる。
「帰れ」と言って、俺はドアを閉めようとする。
話すことなんて、何もないのだから。
ドアの隙間に足を挟まれて、それを止められる。
「どうしても、話しておきたいことがあるんだ」
「俺はない。帰れ」
「……頼む」
真面目な口調で、彼は呟く。
そいつは、いつもおちゃらけた奴だった。
だから、そんな様子を俺は見たことがなかった。
「行ってこいよ」と後ろからコウタが俺に言う。
無責任なこと言うなよ。
この前も夏祭りで会って、千咲に絡まれて、あのザマだ。
「……ハルに、謝りたいんだ」
「……謝る?」
こくっと彼は頷く。
謝られる? 今更? 何を?
「ちょっと待って」
なるべく落ち着いた声音で言うと、彼はあっさり引き下がる。
ドアを閉めて、コウタと正対する。
「進めてこいよ」
「……は?」
「よくわかんねーけど、中学のときに何かあったんだろ、さっきの奴と。
……なら、ちゃんと話をするべきだと俺は思うよ」
「……いくらコウタでも、そんな無責任なこと言うなよ」
「じゃあ、話だけ聞いて、嫌だったらぶん殴ってこい」
話が飛躍しすぎている。
「こんなこと言うのも何だけど、"そこ"をクリアしないと、いつまでもおまえのモヤモヤは晴れないかもしれないぞ?」
「"そこ"」
「そうだ」
「……それは、わかってる」
抽象的な物言い。
言いたいことはわかってる、けど。
「今のおまえなら、大丈夫だ」
「……」
「せっかく今日の夜楽しいことするのに、暗い気持ちでいる奴がいたらつまんねーだろ」
話を聞いてますます気分が沈むこともあるかもしれないのに。
つくづく人の事情を気にしない奴だ。
けれど、彼なりに俺に勇気を出してもらおうと思って言っているのだろう。
「……はあ。まあ、そこまで言うなら、話だけでも聞いてくる」
ドアを開ける。
近くの公園に行って話そうか、と言われる。
動揺して、ため息が出そうになる。
でも、それを我慢する。
きっと、大丈夫だ。
◇
ベンチに座った俺に、彼はちょっと待って、と言って自販機で飲み物を買ってきた。
彼は向かいに座る。
隣に飲み物を置かれる。
受け取りはしない。
「久しぶり」
「……」
「じゃないな。この前、祭で会ったよな」
「……御託はいいから、要件だけ話せ」
「うん」
そう言うと、彼は俺の前までやってきて、地面に頭をつけた。
「……すまなかった」
「……は? どうして」
「……ごめん。中学の時のこと、ずっと、ハルに謝りたかった」
「だから、なんで謝るんだよ」
顔を上げるように促す。
それでも顔を上げない彼の肩を掴んで無理やり上半身を起こさせる。
ブランコの近くにいる子ども連れのママ友連合が訝しげな視線をこちらに向けてくる。
「……あのさ、目立ってるから」
「すまん……」
彼はそれでも申し訳なさそうだった。
なんでだろう、と思う。
「話して、いいか?」
「いいよ」
「中学三年の時、クラスのみんなで寄ってたかってハルに嫌がらせをした」
「……そんなことあったっけ?」
とぼける。
もうあまり思い出したくない。
「……ああ。それで、弱っていくハルを見て、みんなで笑ってた」
「……」
「……ごめん」
俺は首を横に振る。
いじめられてただとか、そんな自覚はあまりしていなかったから。
「初めは、ハルが部活サボったり、挙げ句の果てに退部したりしたことに対しての当てつけだった」
「……」
「ハルがバスケに誘ってくれたのに、最後の総体絶対に勝とうなって言ってたのに、って他のバスケ部の奴らは思ってたんだと思う」
「……うん」
謝りたいというのに、なぜか俺が責められている。
弁解の手段を俺は持ち合わせていない。
「顧問のあいつに聞いたら、『もうバスケはつまんなくなった』って言って退部届を出したって聞いた。
それで俺は──俺らは、裏切られたって思ったんだ」
「その通りだよ」と俺は笑う。
何も間違ってない。全て事実だ。
「……最初は小さな嫌がらせだったけど、ハルは全然気にしていない様子で、俺らはますます苛立ちが大きくなっていった」
「……その話、俺にして大丈夫なの?」
「ああ」
「……」
「無視とかじゃ効かないなって思っていたら、千咲ちゃんとおまえを引き剥がそうって、誰かが言ったんだ」
「あの二人のどっちか?」
「……すまん、覚えていない」
まあ、そうだよな。
自分たちを裏切った奴が、かわいい子と幼馴染で、その幼馴染にそっけなく接してる。
あの頃は、ぼーっとしてることが多くて、クラスメイトに話しかけられても無視していたり、ずっと机で寝たふりをしていた。
無視されている自覚なんてなかった。
誰も近寄るな、と思っていた。
「それで、ハルに嘘をついた」
「……『千咲ちゃんはおまえのことを迷惑がってる』って?」
「……うん」
あの時のこと。
でも──。
「……それでも、ハルは全然気にもとめなくて、どんどん行為はエスカレートしていったんだ」
「……」
「ごめん」
彼はもう一度頭を下げる。
「……話はそれだけか?」
「……」
「……俺は知ってたんだよ、全部。
千咲がそんなこと言うわけないってのも、千咲と仲良くする俺をみんながよく思っていないのも、残された部員の奴らが俺をどう思ってるのかも」
知ってて、そういう行動に出ていた。
自分のことで頭がいっぱいで、家での自分と外での自分の乖離に頭がおかしくなりそうで。
気丈に振舞うのに疲れて、もうやめてしまいたいと何度も思って。
言えない秘密を抱えて、それを悠々と言えるほど信頼できる人間だとは思ってなかった。
俺だって、勝手に差別していたんだ。
だから、謝られるいわれなんてないんだ。
「顔を上げてくれよ。俺が悪いんだよ」
「違う」
「違くないだろ」
「……違うよ。ハルがどう思ってても、俺たちはそれをやったっていう事実は消えない」
「だから──」
「……離婚、したんだろ? ハルの親御さん」
「……」
固まる俺をよそに、彼は言葉をつなぐ。
「俺らはハルの事情をこれっぽっちも考えないまま、場当たり的なことばかりして、裏で笑ってた」
「……」
「ハルが、ただの悪人だと思い込んで、際限のない思いをぶつけてたんだ」
「だから……ごめん」と、彼は言う。
相容れないな、と思う。
もっとうまくやれる可能性だってあったんだ。
そのチャンスをふいにしたのは俺だ。
家族で一緒にいたかった。ただそれだけだった。
でも、それなら……。
彼は、彼一人は、そんな思いをずっと抱えていたのか。
言わなきゃ、と迷っていて、そのままずっと言えないままでいたのか。
「それで、仲直りでもしたいのか?」
「……」
「……」
「したい」
「……じゃあ、しよう」
彼は唖然とした表情で俺を見つめる。
そんなことを言われるとは思っていなかった、とでも言うように。
「あのときのこと、俺は、今でもおまえには言えない。
俺が言わないのだから、おまえだって謝らなくてもいいんだ」
「……」
「何かに気付いてくれただけで、俺は良かったって思うよ」
「……良かった?」
「他の奴らは、こうして話をしにくることなんて絶対にないだろ。
……だから、会いにきてくれるだけで、それだけで、俺はおまえと仲直りしたいって思うし、俺も謝りたいって思う」
100%全部本気の発言ではない。
でも、彼は会いにきた。
嫌な態度を表に出した。帰れと言った。
けれど、彼は自分の気持ちをこうして伝えてくれた。
それだけで、俺は十分だと思った。
「ごめん。あのとき、何も言わず部活をやめて、おまえらを避けるような行動をとって、気付かないフリをずっと続けてて」
彼の前に手を差し出す。
数秒後、彼は俺の手を取る。
簡単なことを、俺は忘れてしまっていた。
「ごめんな」
「謝るなって」
「ハルが謝ったからだよ」
「……じゃあもうお互い謝らない。いいよな?」
彼は少し頭を悩ませるように唸った後、しぶしぶ頷いた。
気付けば、日が落ち始めていた。
昔よく遊んだ公園から見える景色は、そのときの記憶となんら変わりないものに見えた。
◇
ドアを開けると、コウタに迎えられた。
ずっと玄関先に正座をしていたらしい。
「どうだった? 殴った?」
「……殴ってないわ」
「つまんねーの」
「うるせえ」
彼は少し心配していたようだった。
ちょっとは優しいとこあるんじゃん、と思う。
家に帰ってほどなくして、姉と千咲が帰ってきた。
「花火買いに行かなきゃ」
「ホームセンターに行こう」
「じゃあ、チャリだな。貸してもらえるか?」
「いいよ」
ユウヤを河川敷に連れてきてください、と二人に言って、家を出た。
「どうだ、進めたか?」
「うん」
「……良かったなあ」
「まあ、ありがとな」
素直に礼を言うと、彼は照れたように笑って、そっぽを向いてしまった。
「今日は、楽しもうぜ」
「そうだな、楽しもう」
◇
河川敷に到着すると、すでに俺とコウタを除く全ての人たちが揃っていた。
辺りは夕暮れ。川の水がオレンジ色に染まっている。
暗くなってから花火を始めようと決まって、各自自由行動になる。
俺とコウタだけ夕飯を取っていなかったから、近くのコンビニに弁当を買いに行く。
コウタは花火を買い足していた。
パッケージを見ると、『夏のイケない夜遊び 380発!!!!』と書いてあった。
イケない夜の遊びねえ……。
戻ると、みんなで水遊びをしていた。
買ってきたものも食べずにコウタがそれに加わっていく。
少し食べてから、俺も川の方へ向かった。
水切りをして遊ぶ姉とユウヤと杏を眺める。
微笑ましい光景に感心していると、ぶしゅっとした音とともに、背中にひんやりとした感覚を得る。
「せんぱーい、後ろがガラ空きですよー」
なぎさはニヤニヤとして俺に水鉄砲を向ける。
側に落ちている水鉄砲を手にとって、すぐさま撃ち返す。
「あたりませんよー。それちっちゃくて弱いですし」
たしかに。
てか、その水鉄砲大きすぎないか?
反則じみてる見た目だ。
ならば、と考えて連射する。
勢いが弱いなら数で勝負だ。
撃ちまくっているうちに吉野さんや千咲に当たったらしく、どんどん水鉄砲サバゲーに参加者が増えていく。
コウタはエアガンを取り出した。
「そんな物騒なもの出さないでください」
「……じゃなくて、こっちだ!」
逆の手に持っていた水鉄砲で、顔の近くを撃たれる。
さっきから普通に濡れてる。
もういいや、と思って手当たり次第に乱射する。
なぜか集中攻撃された俺とコウタは上下どちらも濡れながら、ほぼ二対六でさらに濡れ続けていた。
女の子たちは下着透けてるけど、着替え持ってきてるのでしょうか。
……そんな思いやりの全くない攻撃を、俺ら二人は送り込む。
なんか、普通に楽しい。
◇
「暗くなってきたし、そろそろやめよっか!」
吉野さんが突然そう言って、水鉄砲サバゲーはお開きとなった。
荷物を置いたところへ戻る。
俺以外は着替えを持っていた。
「言ってなかったっけ?」とコウタが笑いかけてくる。
「聞いてないっす」
対岸には同じように花火をしにきた学生グループがいて、もう始めようとしていた。
持っていたタオルで身体を拭く。
まあ外は暑いし、すぐに乾くだろうと、そのままでいることにする。
ほどなくして、みんなで花火を始めよう、となった。
まずは第一弾として、各自好きなものを好きなだけやっていいらしい。
コウタは打ち上げ花火を二本手持ちして、壁に向かって発射する。
「熱ィ! ハンパねぇ!」
「馬鹿だろ」
「ハルもやろうぜ」
「それ上に撃つものでしょ……?」
「知らねえ、ロケットは横に発射するものだ」
打ち上げ花火を手渡される。
シュワシュワと泡のような音が聞こえる。
近くに家はないし、騒音とかも心配ないだろう。
物は試し。打ち上げ花火を持って火をつける。
ばーん。ばー……。
「……あっつ! 火傷するわ!」
「しないしない」
そう言って彼は何発も打ち込むたびに、「熱!」と叫んでいた。
「お兄さん! こっち来てください」
杏は先端から火花が噴き出す花火を持ってくるくると周りを駆けている。
なぎさは蛇花火をひたすら眺めていた。
謎すぎる。これも邪道好きか?
「カブトムシつかまえた」とユウヤが見せてくる。
暗くて見えないし、手を離したカブトムシが俺の顔にとまった。
なんだこれ……。
「はーくん、ナイアガラの滝やりましょう」
なんだそれ、と思ったが、普通にナイアガラの滝みたいな花火だった。
かがくのちからってすげー!
すげー勢いで足が虫刺されだらけになる。
かがくさんふつうによわい。
帰ったらムヒ塗ろう。
それから、しばらくいろんなところを周りながら花火をした。
吉野さんの持っていた二十五メートル上がる花火を打ち上げる。
なんだこれ、めっちゃ楽しい。
パラシュート出てきたし、しょぼいけど。
「ここで、一旦ストップです」
一旦CMですみたいな言い方。
打ち上げ花火を使い果たし、ロケット花火までも半分ほど使ったコウタが手を叩く。
「みなさん、はしゃぎすぎです」
「いいんじゃね?」
おまえが一番はしゃいでるよ! と女たちから声が上がる。
何ら間違ってもいない。
「いいえ、はしゃぎすぎです」
この前から思ってたけど、何かを提案するとき敬語になる癖があるらしい。
「刺激が足りないように感じますよね」
んなことない、みたいな顔をする。
「だから、肝試ししようぜ!」
「き、肝試し?」ユウヤが一際大きな反応をする。
「そう! 夏の夜の定番といえば肝試しだろ!」
なぜか彼は誇らしげだった。
「ここらへん、幽霊が出るとか出ないとか……」
隣にいた杏の肩がびくっと跳ねる。
同じタイミングでユウヤもビビっている。
この前最恐ホラー番組を観たせいかもしれない。
「ネットに書いてありました。
上半身のない幽霊に追いかけられたとか、写真を撮ったら肩のところに手が置いてあっただとか……」
「ひぃっ……!」
ユウヤはかなりのビビリらしい。
「……範囲はどうするの?」
「そうだな……。調べたところによると、ここをまっすぐ行くと、林道の奥に祠があるから、そこにタッチするってのはどう?」
やけに詳しいな、こいつ。
「……で、帰りは対岸に渡ってこっちに帰ってくる」
「さんせー」と吉野さん。
「私も賛成」と姉。
「じゃあ俺も」と言う。
肝試し。オラワクワクすっぞ!
すでにテンションが深夜のアレだった。
多数決により八人全員参加となる。
怖がっていた人はどうにかして開き直ったらしい。
「そこで!」
「……」
「みんなで行くのは芸がないので、二人組にするか、となるわけですよ」
な? とニヤニヤした顔を向けてくる(暗闇でよく見えないけれど、多分そう)。
何かあったらいいな、ってこういうことか。
「どうやって決めんの? グーパー?」
「くじを作ってきました」
吉野さんがバッグから重そうな箱を取り出してコウタに渡す。
一から四の番号が書かれた紙が二枚ずつ入っているらしい。
吉野さんが俺の肩をポンと叩いて「がんばれよ」と言う。
なんのことだ、と思いつつ、みんなで順番に引くことにする。
コウタは懐中電灯を四本取り出した。
準備がよすぎて困るくらいだ。
箱の周りを照らす。
「あのー……」と杏が声を上げる。
「どうしたの? 杏ちゃん」
「わたし引くの最後でいいので、その箱持ちますよ」
「……おー、ありがとう」
コウタが手渡すと、意外と重かったのか、杏が箱を下に落とした。
彼女は「んしょっ、と」と言いながら紙を集めて箱を持ち上げる。
少なからず萌えを感じる。
「見ていたらやっぱり引きたくなりました!」
二人目が引き終えたあとに、引きたくなったという杏がくじを引いた。
近くで「あっ」、という誰が言ったかわからない吐息のような声が聞こえた。
吉野さん、コウタ、杏と引いて、四番目にくじを引く。
引く前に、「お兄さん」と話しかけられる。
なんだ? と思って近付くと、「折ってあるのはダメですよ」と誰にも聞こえないような小さい声で言われた。
「どういうこと?」と聞き返したけれど、杏は何も答えずその場でにこりと笑うだけだった。
◇
「それじゃお兄さん、そろそろわたしたちも行きましょうか」
俺たちの番になって、内心少しビビっているに違いない杏が手を出してきた。
スタート地点に残る人は俺らを除いてなぎさと姉のあと二人。
つまり紙に書かれていた数字は三番だった。
一番目はコウタと吉野さん。
二番目は千咲とユウヤ。
どちらも男女ペアになっているのが偶然にしては出来すぎかもとも思う。
ほら、俺と杏も一応男女だし。
真っ暗闇の中を、懐中電灯の少しの明かりのみで進んでいく。
もちろん月明かりはあるが、林道に入ればよく見えなくなったりしそうだ。
なんとなく夜の肝試しに楽しそうな雰囲気を感じたが、実際暗闇を歩いてみると普通に怖い。
夜が更けて、肌寒さの増した静謐な河川敷。
虫の音、フクロウのようなほーほーと鳴く鳥の声、木々のざわめき。
出そう、というのにも考えなしに頷ける。
隣を歩く杏はすっかり無言になっていて、所々で石につまずいてしまっていた。
俺だって年長者だ、ここは何かを話そう。
「星が綺麗だな」
「……そ、そうですね。綺麗ですね、月も綺麗です」
「……怖い?」
「怖いです」
月がよく見える場所まで歩いた。
白く透き通るような肌。
杏のそれは月明かりに映えて光を放ち、どこか幻想的な雰囲気を醸し出す。
夜風で切り揃えられたショートカットの髪が舞う。
立ち止まって夜空を見上げると、彼女も同じ方向を見上げた。
「一番怖いのは人間だってよく言うじゃん」
「聞いたことあります」
「……例えば、廃墟とか、心霊スポットとか、こういう暗い場所とか。
一番怖いのは何だと思う?」
「……ゆ、幽霊ですか」
「ハズレ。……答えはな、ヤのつく人だ」
杏は首をひねる。
「……やくざ?」
「ヤンキーだ。そっちの方がよっぽど怖えなおい」
ヤのつく人を思い浮かべてみる。
ヤクザ医師。ヤクルトレディ。ヤマンバ。
半端ねえな。普通に薬剤師だし。
「廃墟とかに集まってワイワイしてんだよ。で、肝試しとかに入ったらカツアゲされたりすんの」
「……その人たちは怖くないんですかね」
「……まあ、俺等最強! って感じだから、きっと」
「なるほど」
そこ納得するのね。
「そういえばさ、引くときにどうしてあんなこと言ったの?」
「引くとき?」
「『折ってるのはダメ』って」
「……あー、その、神のお告げです」
「うん、なんだそれ」
林道に入る。
怖いなら手繋ぐ? と言うと、わたしも中学生なので大丈夫です! と躱された。
振られた。さすがに対象外です。
自分でも何考えてるんだか。
にしても。雰囲気あるなあ……。
足元は土でちゃんとしているけど、木の切れ端が落ちていて、踏むと音が鳴ってビビるし、懐中電灯に虫が集まってきてやかましいし。
「いくらなんでも、ズルはダメですよね、って思ったんですよ?」
「……ズル?」
「だから、わたしもズルしちゃいました」
何を言いたいのかがまったくわかんねえ……。
ズル。言い換えれば不正。
何かを仕込んで、誰かと誰かを組ませようとする、ぐらいしか思いつかない。
でも、この場合こうして折られていない紙をとったら杏とペアになったわけで。
つまり、杏は俺と組みたかった?
「俺と組みたかったの?」
「まあ、それもあります」
正解か。
杏が足元の小石を蹴る。
ひときわ強い風が吹いて、木々がざわざわと大きな音を立てる。
彼女はゆっくりと深呼吸をした。
「わたし、お兄さんのこと大好きです」
「……ん?」
──大好きです。
突然の告白に驚いて彼女から少し距離を取ると、
向こうもびっくりした様子で「違うんです違うんです!」と手をわちゃわちゃ振って否定した。
「わたしが言いたいのは、そういうことじゃなくてですね。
……いや、お兄さんのことは大好きですからね? そこは勘違いしないでください」
「あ……うん、ありがとう」
ビビる。年下にあやされてる気分。
「でも、それと同じかそれ以上に、お姉ちゃんのことも好きなんです」
「……仲良いもんな」
「そうです。だから、それが理由です」
理由? はて、何のことだ?
「お兄さんは──」と杏は話を続ける。
頷きを返して、静かに聞く。
「気付いてましたか? お姉ちゃんのあの口調は、お兄さんに対してだけのものだったってことに」
「気さくな感じの?」
「はい。それで、この前帰ってきてからは、普通の感じに戻っていました」
「……たしかに」
崩した言葉から、たまに敬語を外してくることもあれども、普通の先輩後輩関係の人が使うような敬語に変化していた。
詳しく言うと、帰省の最中からではあるのだが、それほど大きな違和感もなく、自然とそうなっていた。
そういえば、と思い返す。
彼女はあの夜、呼び方や話し方を通じて、俺ともっと近付きたかった、と言っていた。
それで、呼び方はまた先輩に戻っているけれど、口調は戻っていない。
「お姉ちゃんにとってのお兄さんは、とってもとっても特別な存在なんですよ」
「……うん」
話しながら歩いていると、感じていた怖さもどこかへ飛んで行ってしまって、すぐに祠へと到着した。
どうやら、その祠は土地神を数体祀っているらしく、お供え物だったりが二、三置いてある。
「手を合わせると憑いてくるって聞いたことあります」
「大丈夫じゃない?」
二人で祠の前で手を合わせてお辞儀をする。
これで、肝試しの折り返し地点に到着した。
あとは向こうの道から引き返すだけ。
杏に合図をして歩き出そうとすると、困ったように笑って、膝に手を置いた。
「お、お兄さん。怖すぎて足が疲れちゃいました」
「……杏もまだ子どもだな」
「お兄さんだってビクビクしてましたよ」
「同レベル」
「中学生と同レベルですか!」
「……じゃあ、ちょっとここで休んでから動くか」
「よかった……。ここ座れるみたいですし、ちょっとだけお願いします」
◇
俺たち二人は十五分ほど祠の裏面に腰かけて休むことにした。
懐中電灯をぶんぶん振り回していたら突然電池が切れてしまって、
どちらともスマートフォンを持ちあわせていなかったから、その場からうまく動けずにいた。
祠の文様が十二支を象ったもので、海の近くにあった神社のことを想起させる。
杏が上着のポケットをガサゴソと弄って、音楽プレーヤーを取り出した。
それによると時刻は二十二時過ぎ。
花火を始めてからだいぶ時間が過ぎてしまっていた。
何か聴きましょう、と言われイヤホンを片耳だけ拝借して、適当にシャッフルで音楽をかけた。
──月灯りふんわり落ちてくる夜は。
知っている気がしなくもない曲。
何より、今の月明かりに照らされた空間にマッチしていると思った。
「これいつの曲?」
「わからないです。これ、わたしのものじゃないですし」
「ふうん」
しばらく何曲か洋楽やら邦楽やら入り混じった音楽を聴いていると、向こうからガサゴソとした音が片耳に聞こえてきた。
杏の身体がびくっと痙攣する。
ガチガチに固まった顔で、俺を見たり見なかったり。
見るからに動揺を隠せない様子でいた。
「ちょ、っと、ヤのつく人じゃないですか」
コソコソと耳元で呟かれる。
上ずった声にこちらまで怖気付いてしまいそうになる。
「俺が見てこようか?」
「ム、ムリムリ……二人で行動しましょうよ」
「じゃあ二人で表に出るか」
「もっとムリ!」
杏が小さな声で叫ぶと同時に、何やら話し声のようなものが漏れ聞こえてきた。
その二つの声には、どちらも聞き覚えがある。
「姉さんとなぎさみたいだぞ?」
「なんだー……もうここまで追いつかれちゃったんですか」
「一緒に戻ってもらおうか」
「……ん」
立ち上がろうとすると、杏に服の裾を掴まれてそれを制され、まだ座ってるように呼び止められる。
「ちょっと、あっちで何か話してますよ」
言われて、向こうの方へに耳を傾ける。
たしかに、二人は会話をしているようだった。
「……それで、なぎちゃんはハルのこと好きなの?」
「好きですよ」
聞こえてきた会話で、心臓がどきりとする。
なぎさは一瞬の迷いを見せる様子もなく、俺のことを好きだと言い切った。
隣で、杏がふるふると首を縦に振る。
盗み聞き、聞いてはいけないものだと思うけれど、それ以上を聞きたいと思ってしまった。
「でも」と、いつも近くで聞いていた声がする。
「でも、私は邪魔者なのかもしれません」
「邪魔者?」
「……先輩と千咲先輩は好き合ってるんじゃないかなって思います。
だから、個人的な感情でその間に割って入るなんて、そんなことしていいのかなって」
「なぎちゃん」
「……はい」
「それはね、間違ってるよ」
「……どうしてですか?」
「何があっても、最後に決断するのはハルだからだよ」
「……」
「ハルのことだから、どちらも選ばないってことはないと思う。
今だって揺れ動いてると思うし、好きがわからなくなってるかもしれない。
なぎちゃんだって、それはわかってるでしょ?」
「……はい」
「それにね、私はなぎちゃんに感謝してるんだよ。
なぎちゃんのおかげで、ハルと仲直りできて、みんなと一緒にこんなに楽しく遊べて……」
「……」
「そりゃ昔から一緒にいたちーちゃんだって応援はしてるけど」
姉はそこで間をとった。
「……なぎちゃんになら、ハルを任せられるって私は思う」
「……」
「遠慮なんてしなくていいの。ハルに、正面からぶつかっていってあげて」
「……あ、あの、ありがとうございます」
「それで、なぎちゃんはどうしたいの?」
また少し間が空いた。
「……私は、待ちます。私からは絶対に手を離さないって、先輩と約束しましたから」
「……うん、わかった。なぎちゃんがそう思うならそれでよし!」
「はい」
それから、踵を返して二人は歩き去って行った。
残された俺と杏は顔を見合わせたまま数分固まっていた。
「だ、そうですよ。お兄さん?」
「……うん」
「聞かなきゃよかったって思いますか?」
「思わないよ」
「……愛されてますねー、お兄さんは」
「……らしいな」
なぎさと姉の会話を聞いて、ここまで想われれているなんて、と嬉しく思った。
それに、普通に喜べる自分も嬉しい。
でも、タイムリミット。ここでもそうだ。
俺たちも行こっか、と杏に声をかけて歩き出す。
さっきまでの道とは違って木々の間隔が広く、月明かりで十分視界が取れる。
──大丈夫ですよ。
──離れませんし、絶対に離しませんから。
歩いていると、ずっと、と彼女に言われたことを思い出して、顔が赤くなるのを感じた。
「あのさ」
「……なんですか?」
「多分、杏はものすごく小さなときのことだと思うんだけど」
「……えっと」
「──に住んでたことってある?」
もしかしてな、と思いつつ、そのままにしていたことを、杏に訊ねた。
あの場所で少しだけ感じた違和感、あの少女とよく似て見えた彼女、あのときの彼女の狼狽した様子。
杏はきょとんとした顔で頷きを返してくる。
「……ありますけど、それがどうかしたんですか?」
「ううん……なんでもない」
……そっか。
夢や妄想なんかじゃなかったんだ。
どんな確率だよ、どんな偶然だよ、と頭のなかがぐるぐると回る。
でも、これではっきりした。
あの夢に出てきた少女は……なぎさだった。
◇
スタートした地点まで戻ると、心配した様子で六人が駆け寄ってきた。
「二人ともどこ行ってたの」
コウタは手を挙げる。
「これ、電池切れになっちゃって。ちょっと迷ってたんだ。な?」
「……えと、そうです。暗くてよく見えなくて」
「心配したー!」「幽霊に連れてかれたのかと思った」と口々に言われる。
たしかに、四組目が帰ってきて三組目がいなかったら驚くよな。
「じゃあみんな揃ったことだし、気を取り直して、花火第二弾といきましょうか」
コウタの言葉とともに、みんな散り散りになってまた花火を始めることにした。
どうしたもんかなとうろうろしていると、千咲が近くまで寄ってきて、線香花火の勝負をしようと言ってきた。
周りを見渡すと、コウタと吉野さんはロケット花火の残りを発車して暴れていて、
他の四人は一緒に水場で手持ちの花火を複数持ちながら駆けていた。
「はーくん、勝負です」
「うい」
風は吹いているが、千咲の背中によってガードされている。
俺はオレンジ、千咲は緑の色の光がパチパチと弾ける。
しばらく見つめていると、ちょうど同じぐらいのタイミングで地面に落ちた。
「俺の勝ちだな」
「いやいや、どうみても私の勝ちです」
「じゃあもっかい勝負だ」
「……はい」
千咲は楽しそうに何本も花火を渡してきた。
「私も参加します!」と後ろからなぎさが声をかけてくる。
じゃあこれ、と言って持っている線香花火を渡した。
「はーくんとなぎちゃんはどうでしたか?」
「肝試し?」
「はい」
「俺は、杏がビビりすぎてたから逆に落ち着いちゃったけど」
「私も、楓さんと話してたらすぐでした」
「ユウヤくんも私もひいひい言ってたのとは大違いですね」
自虐、そういえば両方怖いもの苦手だったな。
それから、何度も三人で勝負をしたが、なぜか俺が一位になることはなかった。
花火が全て尽きるころには、もはやみんな元気を使い果たしていて(数人は肝試しによる心理的疲労だと思うが)またうちに泊まっていく、ということになった。
マジか、と思っていると、みんなの荷物にはちゃっかり着替えやらが入っていた。
最初からそのつもりだったらしい。
うちに帰ってからも、みんなでリビングから動くことなく遊び続ける。
さっきの疲れた姿が嘘のように活発に動く。アレか、ハッタリか。
かき氷を食べたい! と吉野さんが言えば、誰かが作ってみんなで食べたり、
人生ゲームがしたい! と杏が言えばみんなでプレイしたり。借金地獄になったことは秘密だ。
こいつらに疲れってないのか……と思いつつも、俺も起きたままでいた。
風呂に入ると、間髪入れずしてコウタとユウヤも一緒に入ってきた。
「……俺さ、告白しちゃった」
「え、マジで?」
「マジ」
「兄ちゃん振られた? 振られた?」
「おまえあとで殺すぞ。えっと、もうちょっとしたら答えるって言ってた」
「……へえ、感触は」
「大アリ」
なるほど、だからさっきからテンションがおかしくなっていたのか。
「なんか、一瞬だけ綾が不機嫌になった気もしたけど……」
「そうなの?」
「まあ、多分気のせい」
「ふうん」
風呂を上がってからも、みんなでワイワイ騒ぎ続けた。
さっきのこと──なぎさのことは気になったけれど、一旦それを頭から追い出そうと努めた。
まずは若い二人が寝入って、なぜかコウタが次に落ちて。
千咲となぎさも同じようにしてリビングで寝落ちして。
吉野さんは無言でテレビゲームをしていた。二人だとまだちょっと怖い。
千咲を部屋に運び終えて廊下に出ると、姉が同じくなぎさを運び終えたようで廊下に出てきた。
「明日、何時頃帰ってくるの?」
「夜だと思うよ」
「そっか、姉さんは寝なくていいの?」
「……ん、もうすぐ寝る。あんたこそ寝なくていいの?」
「……ちょっとね」
じゃ、と言ってリビングに戻ろうとする。
「……ね」
「ん?」
「肝試し、二人きりにならなくてよかったね」
「なんのこと?」
「……のこと」
「……え?」
「二人のこと、ちゃんと考えなさい! おやすみ!」
なんかディスられて、姉はそのままてててっと部屋に駆けていった。
廊下に一人になって、今日あったことを思い返す。
旧友と和解のようなものをした。
なぎさの想いを聞いた。
少女が誰なのかを知った。
依然として頭はぐるぐると回っている。
答えなんて、見つかるのだろうか。
でも、まずは明日父さんと話をしてからだ。
それが新たな一歩であると、そう信じよう。
◇
朝から雨が降り続いていた。
散々夜中まで騒いだ俺たちの大半は、そのまま昼過ぎまで眠っていた。
夏はまだ終わっていないし、夏休みだってあと少し残ってはいるけれど、なんとなく夏の終わりのようなものを感じる。
昨夜は、吉野さんがゲームをしているのを見ながらぽちぽちとスマホをいじっていたらいつの間にか寝てしまっていた。
特に話しかけられたという記憶も残っていない。
朝起きて、自分の部屋でぬいぐるみを抱きしめて寝ているなぎさの髪を撫でた。
なんとなく起こさないように、別に起きていたって怒られないだろうけど、少しでも力が欲しかった。
リビングでぼーっとしていると、そのうちに杏が起きてきて、みたらしの散歩をしようと言われた。
犬用のレインコート。相合傘。リードが不安定だから俺が傘をさしているのは好都合のようだった。
ぴちゃぴちゃとアスファルトが音を立てる。雨の匂いは久しぶりかもしれない。
「前から思ってたんですけど」と、杏が呟く。
「お兄さんってかなりのシスコンですよね」
「そう?」
「楓お姉ちゃん、優しいし料理も美味しいし何よりかわいいですし」
「それわかるな」
「ほら、やっぱり」
杏がくすくす笑う。
言われて気付く。
わけではない。普通に俺はシスコンです。
「杏だってそうだろ」
「そうです、お姉ちゃん大好きです」
「……」
「昨日も言った通りですよ」
それは、そうだけど。
こう……ね、姉妹愛なのに変な妄想をしてしまう自分の罪深さを恥じたい。
「最近さ、姉さんがよく笑うようになったんだよ」
「……えっと」
「バタバタといろんなことがあってさ。だから、今はみんなといるのが好きみたい」
「嬉しいことですね」
「……まあ、何が言いたいかって言うと、笑ってる姉さんはすげーかわいいって話だよ」
「お姉ちゃんもかわいいですよ」
「じゃあ、毎日抱き枕になってあげなさい」
「それはムリです」
「どして」
「わたしの身長だと、お姉ちゃんに抱きしめられると……」
「胸で窒息」
「よくわかりましたねー」
容易に想像がついた。
「あれです、あんなに成長するとは思ってなくてですね」
「……」
「お兄さん大きい胸が大好きですもんね」
「ふつう」
「嘘だ!」
あまり考えたことないや。
◇
お昼時になると、みんなでリビングに集合して、ファミレスにでも行こうとなった。
ファミレスはサイゼが至高。
本当のこと言うとガストの方が好きだったりする。
大正義ミラノ風ドリア。をスルーして、パスタを食べる。
コウタはピラフ、姉は海老ドリア、吉野さんは俺と同じくパスタ、千咲はチキンプレート。
杏とユウヤはあまりお腹が空いていないらしくドリンクバーのみの注文。
なぎさはエスカルゴを食べていた。
食べたことないわ、あれ美味しいんだろうか。
言っちゃえばカタツムリでしょ。
食事をしながら、午後からどうするかを話す。
俺と姉は用事がある、と一応すぐに言っておいた。
すると、何を思ったかこれから六人でカラオケに行くらしい。
五時間パック、やっぱり無尽蔵の元気を持っているようだ。
外に出ると雨が一段と強くなっていた。
姉と一緒に帰宅する。
リビングで参考書を開いた姉に迷惑はかけられないと思い自分の部屋に移動する。
昨日まで晴れてよかったな、と考える。
ふと気付けば、どんどん居心地が良くなっていた。
一息ついて、頭を切り替える。
とりあえず、取りこぼしのないように言いたいことを紙にまとめてみよう。
父さんの過去の話。
母さんの話。
俺の話。
これからの話。
最初の話については、どこまで触れていいものなのか判別がつかないけれど、あまり考えすぎずに訊ねたい。
それに、一番重要なのは最後のことだ。
過去は変えられない。
俺は過去にずっと悩んできて、姉さんもそういう様子を見せていて。
今も、これからも過去はずっとついてまわることだとも思う。
だから"これからどうするか"だ。
理想なのは、父さんが少しでもいいから今までより帰ってくること。
会社が本当に大変なら、それならそれと割り切ろう。
多分、俺がしてほしいのは意識的な問題で、改善とは言わずとも改良くらいは取りつけたい。
それに、ゆかりさんとの約束だってある。
落ち着こう。
◇
時が経っても、雨足は弱まりを見せなかった。
時刻は十八時四十分。
そろそろ遅めの夕飯の準備をしようか、と姉が立ち上がると同時に家の電話が鳴った。
数回の短いやりとり。
「今から帰ってくるって」
通話を終えて受話器を置かないまま、姉は俺に嬉しそうな顔で話しかけてきた。
「それで、傘持ってないから駅まで迎えに来てほしいって」
「うん」
「……ハルが行ってきなさい」
「姉さんも」
「いいの、男同士しかわからないことだってあるじゃない」
「でも……」
「夜ごはんは作らないでおくから、二人でどこかで食べてきてね」
いざ、となると少し動揺する。
それを感じ取ったのか、姉は俺の前に握りこぶしを作った。
「お父さんと、話したいことがあるんでしょ?」
「……うん」
「応援してるから。……あとで、聞かせてね?」
「ありがとう……行ってきます」
◇
駅前まで走って行った。
当然だけれど、父さんの姿はなかった。
自販機で缶コーヒーを買って水分を補給する。
二十分くらい経って、改札前に父親は姿を現した。
「父さん、迎えにきたよ」
「……ハルか、ありがとな」
いつものスーツ姿。
でも、前に会ったときとはだいぶ違って見える。
二人で雨の中を歩く。
二人きりになるのが怖かったから、並んで歩くのは数年ぶりのことだった。
最近どうだった、とか、あんまり家に帰れなくてごめんな、とか。
やっぱりどこかぎこちない。
「ねえ、父さん」
満を辞して、隣にいる父さんに声をかける。
「どうした?」
「……話があるんだ」
なるべく真剣な表情と声音で言った。
「ここじゃないと駄目か?」
「姉さんが、二人でどこか行ってこいって」
「……そうか。大事な話、なんだな」
「うん、聞いてほしい話なんだ」
◇
数分間に渡って無言のまま父さんについていくと、駅から近くの繁華街に出た。
俺はというと、かなり緊張していた。
父さんもその雰囲気を感じ取ってくれたのか、路地にあるビルに入ろうか、と言ってきた。
細長いビルの四階、エレベーターのドアが開くと、すぐに店員に迎えられる。
ほぼキャンドルのみの薄暗い照明。
なんとなくお高そうな装飾。
カウンターには危なそうな兄ちゃんだったり胸元の大きく開いた服を着た女の人だったりが座っている。
周りをきょろきょろと見回しても、俺ぐらいの歳の人は誰一人としていなかった。
どうも、と父が店員に声をかける。
個室に通されて、正面に腰掛ける。
「ここって……」
「ん、ゆっくり話せるところがよかっただろ?」
「でも、バーじゃ」
「ああ……そうか、まだ高校生か」
「さすがに酒は飲めないよ」
飲んだと言ったら、何か小言を言われるかもしれない。
……言わないだろうけど、うん。
「まあでも、食べ物は美味しいし、何か頼もうか」
「軽いものでいいよ」
「飲み物はどうする?」
「ジンジャエールで」
「辛口か?」
「おまかせで」
手慣れた感じで父親が注文をする。
それがなんだか意外に思った。
「こういうとこ、よく来るの?」
「上司とだったり、取引先との付き合いでな……」
「そうなんだ」
父さんも今日お酒はいいかな、と言って頼まなかった。
しばし間を置いて、飲み物と共にチーズオムレツが出てきた。
「これ好きなんだ」と父さんは少し恥ずかしそうに言っていた。
さくさくと食べ終えて、一息つく。
「──それで、話したいことって?」
「うん……えっと」
彼は静かに頷く。
目を閉じる。すぐに開ける。
「……この前、あっちに行ってきたんだ。
それで、ハジメさんにいろいろ言われた」
「……そうか」
「そのあと……ゆかりさんに、父さんのことを訊いた」
「ゆかりに?」
「うん……薫乃さんとの、こと」
「薫乃……か。聞かせてもらえるか?」
それから、ゆかりさんと話したことを包み隠さず伝えた。
随所に言いづらいこともあって、でも、必ず言わなければいけないことだと思って、一思いに口にした。
父親は俺の話の最中、所々で苦い顔をしたり、納得がいかなそうに頷いていたりした。
話し終えると、彼は大きく息を吐いたあと、飲み物をくびっと飲み干し、おかわりを頼んだ。
「その話は、全てゆかりが言っていたことなのか?」
目に見えて戸惑っている様子だった。
「……そうだよ。父さんのこと、すごく心配してるって。電話してもなかなか出ないからって」
「あいつ……そっか、心配ばかり、かけていたんだな」
「……」
「ゆかりの言ったことは、ほぼ全てその通りだ。
昔薫乃に好意を抱いていたのも、兄ちゃんや親戚たちと関係が悪いのも、全部合っている」
やっぱりそうなんだ、とあまり驚かなかった。
でも、そんなのは俺からしたらどうでもいい。
他人の恋路や、自分とあまり縁深くない人たちとの関係なんて、重要さをあまり持たない。
俺が訊きたいのは、父さんと母さんのことだ。
「……じゃあ父さんは、母さんのことを本当に好きで結婚したの?」
「どうしてそう思う?」
「だって……薫乃さんのことをずっと好きだったんでしょ。
それで、ハジメさんと薫乃さんが結婚して二年も経たずに父さんも結婚したって、そう聞いた」
カラカラとグラスの中の氷を回す音がした。
責めてしまわないように、考えていたことだけれど、直接対峙して出てきた言葉はこれだ。
俺は彼からの言葉を待った。
彼は少し迷っていたようだったけれど、目を逸らさず見つめている俺に観念したかのように首を横に振った。
「……そうじゃない、そうじゃないんだ」
「……」
「母さんのことは、本気で好きだった。
付き合いを始めてから結婚している間は、俺はずっと好きだった」
「なら、どうして」
「それについては、完全に父さんが悪い」
好きだった。
母さんも、父さんのことを好いていた。
そこから、どうしてああなってしまったのか、俺にはわからない。
「こんな話、本当は子どもに伝える話じゃないんだ。
だけど、おまえは悩み続けていたんだよな」
「……うん」
「……宴会の席でな、兄ちゃんが母さんに余計なことを言ったんだ」
「……なんて?」
「『あいつは君じゃなくて、俺の嫁がずっと好きなんだ』って、そういうことを言ったんだ」
言い切って、彼は頭をガシガシと掻く。
それもひとつの可能性としては考えてはいた。
けれど、さすがにそれはありえないと勝手に打ち消していた。
人はそこまでして誰かを壊したいと……そんなことを思えるのか。
「でも、それは言い訳になんてならない。母さんと駄目になったのは、それでも俺のせいなんだ」
「どうして?」
「それを聞いてから、あいつは不安定になった。
もともと自分の感情を抑えるのが下手な子で、おまえもそれについては少し心あたりがあるだろ?」
「まあ……うん」
「……しきりに、『わたしのこと本当に好き?』『愛してる?』って、訊かれるようになったんだ」
「……」
「俺は家族みんなが好きで、愛していたから、その度に答えていた。
でも、信じてもらえなかった」
母さんが仕事で帰りの遅い父さんについて嘆く。
帰省をしたがらない、子どもたちだけとか、父さんと三人でとか。
思い返せば、それなりに線を結ぶ事象は散りばめられていた。
「母さんは、どんどん追い詰められていった。
言葉がキツくなっていって、俺と顔を合わすたびに、『あなたは本当は誰が好きなの?』『わたしは薫乃さんの代替品でしょ?』とか、そう言ってくるようになったんだ」
「……」
「それに対して、俺が何を言っても信じてもらえなくて、折れてしまいそうだった」
「白状するよ」と父さんは言う。
テーブルに手を置いて、頭を深々と下ろした。
「……俺は、薄々気が付いてはいたんだ。
母さんが浮気をしていたのも、ハルがそれに気付いていたのも」
「そう、なんだ……」
父さんは、気付いていた。
あの雨の日。あのとき、父さんが言いかけた言葉は、やはりこのことだったんだ。
「知ってて、俺は長い間そのままにしていた。
おまえを苦しめて、母さんも苦しめていた」
「……」
「だから、俺は父親失格なんだ」
「……どうして、そのままにしてたの」
「あのときは特に仕事で忙しくて、家族のために時間が全く取れなくて。
……それで、楓とハルには母親が必要で、今更田舎におまえたちを預けるなんて、絶対にできないことだと、そう思っていたから」
「姉さんは……」
「楓が脆い子で、母さんから愚痴をこぼされていたのも、わかってた。
わかってた上で、俺は、そのままにしていたんだ」
「……うん」
そう言われても、そうなんだ、としか思えない。
覚悟はしていたことだったから。
俺と姉さんにとって不都合でも、父さんにとっては、家族を守る手段だったのだから。
一度壊れたものは元には戻せない。
壊れかけたものをだましだましつぎはぎするか、きっぱり諦めてしまうか、それしかない。
「俺が母さんのことを伝えたとき、父さんはすぐに行動してくれたのも、全部知ってたから……なんだよね?」
「そうだ」
彼は目を伏せる。
「……俺は、父さんのとった行動は悪いことだとは思わないよ。
身体的にも精神的にも傷ついたし、姉さんも元気が無くなってたのもそうだけど、でも……」
うまく言葉が見つからない。
父さんは、自分にできることをやっただけで悪くないと、そう言いたかった。
でも、それを言うことによって更に追い詰めてはしまわないだろうか。
言葉に出すのは簡単で、だからこそ一生ついて回る。
「……父さんは」
「……」
「家族みんなのことが、本当に好きだったんだよね?」
「ああ、そうだ」
初めから怒ってなんていなかったから、その言葉だけで胸のつかえが取れたような感覚を得る。
なんでだろう、と思う。
俺は「好きだ」とただそれだけを言葉に出してほしかったんだ。
ずっと、不安だったんだ。
ずっと、それで悩んでいたんだ。
俺が壊してしまったと、そう思ってた。
だから、そうじゃないよって言ってもらいたかったんだ。
外に出よう、と言って会計をお願いした。
雨はだいぶ弱まっていて、駅を抜けて歩いた先には人の姿はあまり見えない。
言いたかったことは、言えなかったことは──。
「父さん、前は駄目だったかもしれないけど……今からでも、やり直そうよ」
「……」
「父さんのことを、俺も、姉さんも、誰も責めないから。
だから、お互い逃げないで、ちゃんと向き合おう」
「……そう、だよな。あのときだって向き合えれば、よかったんだよな」
父さんの目から、ぽろぽろと涙が溢れる。
俺は父さんの泣いている姿を、一度たりとも見たことがなかった。
父さんは冷淡で、自由人で、あまり俺のことを見てくれなくて、
今までずっと……そう勘違いしていた。
「帰って、三人でこれからについて話そう?
姉さんも、絶対に父さんのことを待っているから」
「ごめん……ごめんな」
「怒ってないから、そんなに泣かないで」
「……」
立ち止まって、父さんは手拭いで涙を拭きつつ、ずっと俺に謝ってきた。
簡単なことから目を背けていたのは、俺も父さんも同じだったんだ。
出てきた言葉は、言いたかったことの半分も伝わっていないのかもしれない。
けれど、これからは今までとは違くなると、そう信じたい。
話をして、一緒に考えて、その上でどうするかを決めることができると。
しばらくそのままでいると、誰かの心を見ていたかのように雨が上がった。
俺は、一歩を踏み出すことができた。
◇
家に帰って、三人で話をした。
今すぐは厳しいけど、十月くらいからはなるべく定時であがることにするし、四月からは仕事を減らすようにする、と父さんが言った。
姉さんは、地元の大学を受ける、と父さんと俺に言った。
ゆかりさんにはこのことで相談をしていたらしい。
途中、姉さんが泣き出してしまって、それを宥めたり、
今度は父さんがもらい泣きをしてボロボロ泣き始めてしまって大変だった。
翌朝、父さんは元気な顔で「行ってきます」と出社していった。
次帰ってくるのはもう少し先と言っていたが、俺はそれでも構わない。
完全に片付いてはいないが、それでも、俺は嬉しかった。
無理やり戻すのではなく、一から始めることができることが、たまらなく嬉しかった。
◇
忘れないうちに、とゆかりさんに電話をかける。
仕事はさほど忙しくないと言っていたし、メールやラインというのも味気がないと思ったから。
「父さんと話をしたよ」
『……どうだった?』
「ゆかりさんの予想はほぼ正しくて──」
約束通りに、昨日あったことを包み隠さず話した。
うちの状況も少しずつでも変化していくと思う、と言うと、やけにテンションの高い声音で「よかったね!」と言われた。
ゆかりさんも近々父さんに会いにくるらしい。
『……それで、ハルはどうなったの?』
「どうって?」
『このまえちーちゃんと修羅場っぽかったし。
旅行中はなぎちゃんとイチャイチャしてたし』
「……どうって言ってもねえ」
『どっちが好きなの?』
「ゆかりさんこそどうなんですか」
『それを言うかね君は』
「防衛手段」
『もし迷ってるなら、悩みすぎないようにね』
スルー、自分の話には触れられたくないらしい。
「ああ……ありがとうございます」
『まあ、恋愛経験ほとんどない私からはそっち方面のアドバイスはできないけど、何かあったら教えてね』
「……あの」
『……どうしたの?』
「俺が小学生ぐらいのときに、そっちでよく遊んでた子って記憶にある?」
『んー……。ハルが小さい頃ねー』
「この前の展望台に行った記憶があって」
『……あー、でも、うん。あると思う』
「女の子?」
『……多分?』
直接本人に訊けないのはもどかしい。
でも、知ってて黙っていたのなら何か考えがあるはずで、話してくれるのを待ちたい。
──待ちたい、けれども、なぎさも俺のことを待つと言っていた。
つまり平行線。
変化を求めるなら、俺からアクションを起こすしかない。
『その女の子がどうしたの?』
「……いや、こっちで会ったことあるかもって思って」
『なぎちゃん?』
「は」
『あたり?』
「ま、まあ……そうなんだけど。
何か気になることでもあったの?」
『……最初に見たときから既視感あるなーっていうか、どこで見たなーってのは忘れてたんだけど、とにかく会ったことあるかもって』
「……おお」
気付くものなのか?
俺なんて二年近くも全く気が付かなかったのに。
そうなると、自分の鈍感さ加減というか、むしろなぎさが上手いってのもあるかもしれないけど。
一日目になぎさは変装と言ってメガネを掛けたりしていた。
辻褄は合うけど、なんだろう……。
『まあ、今まで言わなかったってのは、何かしらハルのためなんじゃないの?』
「それはわかるけど……」
『ここでひとつお姉さんからのアドバイスです!』
「さっきアドバイスできないって」
『黙って聞く!』
「へい」
『絶対に、譲歩はしちゃダメだよ。
多少無理やりにでもいいから、自分の中で納得できるようにすること』
「……譲歩?」
『そこが、私から見たハルの弱いところだよ』
譲歩。折り合い。納得。
ちゃんと自分の意思で決めろ、ということだろう。
「……うん、考えてみる」
◇
それからも、みんなでうちに集まって遊んだり、数人で泊まったりすることは連日のように続いた。
その間、俺は悩み続けていた。
どちらからも告白されたわけではないのに、どちらかを選ぼうとしている。
とはいえ、行動にはいつも出されているしキスされたし、なぎさに至っては好意を盗み聞きしすらしてしまったわけで。
なぎさも千咲も家には来るが特にアクションも起こさず(千咲は課題に追われて、なぎさはいつも通りだったけれど)コウタも吉野さんからの返事はまだもらえていないようだった。
いろんな感情が入り混じってしまって落ち着かない。
ソファに無造作に座った千咲のパンツが見えても反応ができないくらい落ち着かない。
ばっちり見たけど、ピンクだったけど。
仮にどちらかから告白されたら、そっちに傾いてしまいそうな気がする。
不誠実さの塊。
自分で自分がわかりません。
一人で頭を抱えていると、姉が部屋に入ってきた。
みんないつのまにか夕方には帰ってしまって、家には俺たち二人しか残っていない。
「悩みごと?」
「……なにがなんだか」
「そんなに迷うことなの?」
「……」
逆に迷わないんだろうか、こういう場合。
姉は学校で結構人気あるって言ってたけど、恋愛に関しては俺と同じで初心者っぽいし。
「姉さんは告白されたときどうしてる?」
「……告白ね。断ったことしかないからよくわかんないや」
「好きな人とかいないの?」
「え、やー……。私は家族が好きだからそれでいいかなって」
「ふーん……」
それ普通に照れるな。
家族、実質俺が好き。この前寝たときに言われたけど。
なんて変なことばかりは考えが浮かんで来る始末。
「私はね」
「うん」
「ハルがどっちのことを好きなのか、もうわかってるよ」
「……え」
何を言っているんだ。
「聞こえなかった? 私にはわかってるって」
「あ……うん、聞いてる聞いてる。
じゃあ、それはどっちなの?」
自分でもわからないって思っているのに。
そんなに行動に出ているのか、もしくは実姉だからわかったとか。
「質問してくから答えてね」
「うん」
「どっちと離れたくない?」
「……いや、そんなの言われても決めれないし」
「じゃあ次の質問。どっちといるのが楽しい?」
「それは……なぎさだと思う」
「次ね。ちーちゃんにキスされたとき、どう思った?」
「……驚いたけど、なぎさに見られたのが嫌だった」
「それだよ」
それって……。
「答え、もう出てるじゃん」
「いや、だからってなぎさが好きなんて……」
「難しいこと考えないでさ、シンプルに考えなよ」
どこかで誰かに言われた言葉と同じだ。
もし、と想像してみる。
なぎさに告白して、付き合って。
そしたら千咲は。
「もしそうなったとしたら、千咲とまた離れちゃうじゃないか」
「じゃあ、ちーちゃんと付き合うの?
ハルはなぎちゃんを選ばないの?」
「それは……」
「もっと嫌でしょ?」
嫌だ。
「……でも、なぎさは俺から離れないって」
言うと、姉が一歩距離を詰めてきた。
「……あのね」
「……」
「ハルはずっとなぎちゃんを気にしてて、ふとしたときに見ると、いっつもなぎちゃんの方を見てるんだよ」
「……本当に?」
「うん、私が嘘つく必要なんてないでしょ」
言われて思い返してみる。
自覚はない。
見てはいたけど、それは気になるからで。
……気になるからで。
「その後がどうとか、誰かを取れば誰かを傷付けるとか、そういうんじゃなくて。
ハルが考えた上での本気の言葉を伝えなきゃダメだと私は思うな」
「……」
言われて、というよりも。
前々から認めたくなかっただけなのかもしれない。
手を握って、握られて。ドキドキして、安心して。
俺が迷っているときに言葉をくれて、俺が決断するまで待っていてくれて。
ずっと一緒にいると言ってくれて。
姉さんとなぎさの会話を聞いたとき、素直に喜べた。
彼女が俺を好いてくれていることが、すごく嬉しかった。
好きになる理由なんて簡単だったんだ。
あのとき、あの場所で、一緒に話をしてくれるだけで、彼女を特別に思うには十分な理由だった。
──だから。
「俺は、なぎさが好きだ」
言葉に出す。
姉に聞かせるし、自分にも言い聞かせる。
抱いた感情は紛れもなく本物に違いない。
「やっと気付いたか」
姉は得意げだった。
当てたんだし、そりゃそうか。
「……でも」
「……また難しいこと考えてるでしょ!」
姉がデコピンをかましてくる。
普通に痛い。主に爪が。
「ちーちゃんとの関係がなくなったりなんて、絶対にないから。
私が、絶対にそんなことになんかさせないから」
「……」
「あの子は、私の大好きな妹だから。心配しないで」
「……」
「……現状維持なんて、お互い苦しむだけだよ」
現状維持。
そんなことは、とうの昔に理解している。
けれど、離される側の恐怖は離す側より大きくて。
だから、なぎさに手を離される方が俺にとってはよっぽど怖いし、絶対にされたくないことだ。
離されたくないのなら、こっちが掴まえて離さなければいい。
つまり、俺の決着は、そういうことなんだろう。
いいかげん俺も腹をくくらなければならない。
「それに、どっちもダメになっちゃっても、最悪私がいるし!」
「いや、姉さんは……」
「不満?」
「姉さんとは、そんなこと言われなくても俺は一緒にいたいって思ってるから」
「な、な……ハルのくせに生意気!」
顔を真っ赤に染めてびしびしと殴られた。
態度の軟化がすさまじい。
いつぞやのツンデレ楓ちゃんはどこに行った。
ていうか、そういう発言とか普通にブラコン以上の好意を持たれているとしか思えないような。
俺も姉さんと大して変わらないけど。
少し浮ついた空気を変えるように、姉は大きく咳払いをする。
「気持ちは固まった?」
「千咲と話をする。……それで、俺の想いを伝える」
「……うん。私の手伝いは、いらないよね?」
姉の温かな問いかけに、自信を持って頷いた。
◇
次の日、俺の家には誰も来なかった。
姉も、午後から塾に行くと言っていて、うちに俺一人になる。
またいろいろと考えていたけれど、結論は変わらなかった。
なぎさのことが好きだ。
それは、誰と比べるとかじゃなくて、何にも変えられない「好き」だ。
なぎさとずっと一緒にいたいと思う。
なら、すぐに言わなければ。
家を出て、千咲の家に向かう。
千咲の家に行くのは、小学生のとき以来のことだ。
インターホンを押すと、彼女のお母さんが出てきた。
千咲を呼んでください、と言うと、二階まで呼びに行ったら? と言われてそのまま中に通された。
ドアをノックする。
「千咲、話がしたい」
「はーくん? ちょっと待ってて下さい」
ガサゴソと音がしたのち、廊下に出てきた。
「……何ですか、話って」
俺の返事を待たずして、とりあえず部屋に入りますか、と言われて部屋に入った。
ピンク基調の女の子らしい部屋。
部屋に入るのは、これが初めてではなかったはずだ。
「聞いてほしいことがある」
「……聞きますよ」
彼女が視線を落とすのを見る。
緊張した雰囲気が伝染する。
千咲に伝える言葉は、思ったことを隠さずに言おうと、何も考えずにいた。
「俺は、」
千咲の肩がびくりと跳ねる。
唇を噛む彼女の表情を見て、また罪悪感を覚える。
「……俺は──」
「はーくん!」
大きな声で、言葉を遮られる。
近くに詰め寄られて、肩を掴まれる。
「それを……言う前に、私のお願いを聞いてくれませんか?」
「……何?」
「まずは、えっと……外に出ましょうか」
「いや、うん……そうしようか」
◇
部屋の外に追い出された。
ちょっと着替えるので外に出てて下さい、あとはーくんは動きやすい格好で四丁目の公園に来て下さい! と千咲に早口でまくし立てられた。
一階に降りると、千咲の母親は家にいなかった。
家に戻って、適当なジャージに着替える。
なんだろう、と思ったけれど、千咲は妙な真剣さを帯びていて、それを汲むことにした。
四丁目の公園。
数分待っていると千咲が現れて、部活をするような格好にバスケットボールを持ってきていた。
「どうしたんだ?」
「私のお願いは、はーくんとバスケをすることです!」
俺の目を見て、彼女はそう呟いた。
すぐにボールを投げられる。
中学以来、触らないでいた感触を肌で感じる。
「……これ、六号球じゃん」
「いいじゃないですか、私女子ですし」
リングのある場所まで移動して、千咲にボールを投げ返した。
シュートを撃つ。入る。
「はーくんもどうぞ?」
そう言われて、撃ってみる。
ぐちゃぐちゃなフォーム、当然入らない。
「はーくん下手すぎです」
「しょうがねえだろ、ずっとやってなかったんだから」
「中学校のエースだったじゃないですか」
「弱小校のな。それにやめたし」
「でも、うちの高校の人より全然上手かったと思いますよ?」
「……うちの高校そんな弱いんだ」
「そうじゃなくて!」
「……コウタにしても千咲にしても買いかぶりすぎ」
「コウタくんにも言われたんですか?」
「うん」
「……シュート、もう一本撃ちましょ?」
言われて、ボールを手に取る。
はーくんはこうでしたよ、と手を直される。
その通りに撃ってみる。
リングに少しも掠めずに入った。
「さすがですね」
「……ごめん」
「いいえ、私にバスケを教えてくれたのは、はーくんでしたから」
続けよう、と言われて、シュートを交互に撃ったり1on1をしたりした。
中学校の頃より、千咲が格段に上手くなってるのを感じた。
それから、夕焼け空に変わるまで、俺たちはバスケをやり続けた。
◇
あたりはオレンジ色で、一歩先を歩く千咲の足取りは軽かった。
いいかげん言わなきゃな、と思っていると、彼女が立ち止まった。
「私のお願いも叶いましたし、はーくんの言いたいこと、聞きます」
そう言いながらこちらを振り返る。
風が止む。鳥や虫の声だってうまく聞こえない。
いつの間にか身体がズキズキと痛んできた。
後ろから夕日で照らされていて、彼女の顔色は読めない。
落ち着かなくて。途中で買った飲み物を持った手が少し震えて。
顔がこわばるのを感じる。でも、決めたことだ。
「千咲」
「……はい」
「俺さ、なぎさのことが好きだ」
言うと同時に、千咲が一歩距離を詰めてきた。
目には涙。きらきらと潤んでいて、何度もまばたきをする。
泣いている。泣かせてしまった。
言わなければよかったのではないか、と気分が沈む。
何度も涙を手で拭って、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
胸に、手を置かれる。
「……だから」
「……待って、下さい。私の……私の話を聞いて下さい」
「……うん」
どん、どん、と胸を叩かれる。
目は充血していて、時折鼻をすする音が漏れる。
「わた、し……は、最初から、わかってたんです」
「……」
「だから、わたしは……無理やりにでも、はーくんの気を引きたかったんです」
泣きやませないと、と思う。
けれど、俺には何もできない。
「怒ってるようにみせたり、キスをしてみたり、いろんなことを……試して、みました。
でも、はーくんの視線の先には……ずっとなぎちゃんがいました」
「……うん」
「わたしは……認めたくなかったんです。はーくんが、どんどん元気を取り戻していくのを見て……でもそれはわたしじゃなくて、なぎちゃんのおかげであって」
「……そんなこと」
「……あります、あるんです。それで、わたしは、はーくんに告白しようと思いました」
「……」
「もしわたしが告白をしたら、はーくんは優しいから、絶対にわたしを傷つけないように行動するって、わかってて……それでも告白しようと思いました」
思考を読まれていた。
たしかに、そう思っていた。
「けど、それは……はーくんのためにはならないってことも、わかってたんです」
「……俺のため?」
「……あのとき、わたしがあなたから逃げ出してなかったら、もっと正面から話をできていればなって、ずっと……ずっと後悔していました」
あのとき。
「わたしからみて、あなたは、決心したように見えます」
「……決心、か」
ふっと身体が離れた。
またそれまでの距離をとって、何度も涙を拭ったあと、彼女は俺に向けて笑った。
「わたしの気持ち、聞いてもらえますか?」
「……うん」
「あなたのことが、昔から、ずっと、ずーっと好きでした。
まどろっこしいのは、もうやめます」
彼女はもう一度笑った。
「これが、わたしの……わたしの心からの気持ちです」
「……うん」
「返事はしなくていいです。あの子のところへ、行ってあげてください」
「あの子に、あなたの気持ちを伝えてあげてください」と言って彼女はくしゃくしゃの顔で笑って、俺の身体を押した。
ありがとう、と気付けば口にしていた。
いるかどうかなんてわからないのに、連絡をしたわけでもないのに、俺はなぎさの家の方向へ走り出した。
今すぐ言わなければいけないと思った。
千咲に告白をされて、背中を押されたように思った。
だから、俺は、迷いなんて打ち捨てて、とにかく走らなきゃ、と思った。
昔痛めた足がズキズキとまた痛んだ。
でも、俺は彼女のところへ走り続けていた。
◇
「どうして走ってるんですか?」
道端で、犬のリードを引く彼女が声をかけてきた。
みたらし。なぜこの時間に散歩。
ジャンプ漫画顔負けの走りだった。
わざと転んだりして擦り傷をつければ役満というくらい。
……なんかこう考えるとアホらしいな。
急を必ずしも要するものではないし、いやまあ今すぐ話したいけども。
でも普通に恥ずかしいな、なんだこれ。
「軽めの運動?」
「そうは、見えないですけど」
そりゃそうだ、もはや全力疾走。
外が涼しくて助かったくらいだ。
「……冗談。ちょっと、話がしたい」
「あ、じゃあみーくん置いてくるので、待っててください」
てくてくと家の中に入っていって、数十秒ほどで目の前に戻ってきた。
「それで、お話って?」
「まあ、とりあえずいつものとこ行こう」
「あ、はい……わかりました」
緊張しながら歩く。
やっぱり、空気でわかるものなんだなあ、と思う。
身体が冷えて、寒くてくしゃみが出る。
何度も通った道なのに、意識するだけでこんなにも変わるのか。
空は紫色に滲んでいて、カラスが西に飛んでいくのが見えた。
ほどなくして、彼女といつも会っていた場所にたどり着く。
高台からの街並み。少しずつ姿を現した星々。隣にいる彼女。
「えっと……なんでこんな時間に散歩してたの?」
「杏に頼まれて」
「へえー」
「……」
普通に気まずい。
ていうか緊張がやばい。
多少シミュレーションのようなものはしたけど、実際に会ってみると全然違ってくる。
「あのさ」
「はい、なんですか?」
覚悟ができた、というふうに彼女は俺の隣に座った。
口に出してから、なにから話したものかと思う。
千咲に告白されたこと。
少女は本当になぎさなのかということ。
父さんと話をしたこと。
それが成功したこと。
まだいろいろ問題が残っていて、それは解決するのにもっと時間がかかるものなのかもしれない。
でも、もし悩むようなことがあったら、そのとき彼女が自分の近くにいてほしい。
離れてほしくないなら、こっちが離さなければいい。
一番伝えたいのは、俺の彼女への気持ちだ。
シンプルに言おう。
そうしたら、彼女も受け止めてくれるはずだ。
「なぎさ」
「……はい」
「俺は、なぎさが好きだ」
「……へ?」
違うことを言われると予想していたのだろうか。
そんなことを言われるなんて思っていなかったというように、
彼女は落ち着かない様子で、身体をばたばたと左右に動かして、視線を横に逸らした。
簡潔すぎて言葉が足りなかったのか、と思う。
だから、俺はすぐに言葉をつなぐ。
「なぎさのことが好きだから、俺と付き合って、ずっと一緒にいてほしい」
「……」
「……」
肩を掴んで、彼女と正対する。
彼女は耳の先まで真っ赤に染めて、俺のことを直視できないかのように首をふるふると振った。
「……ほんき、ですか?」
「うん」
「こんな私のことが、本当に好きなんですか?」
「好きだよ」
言葉に出すと、なぎさは頬を緩めて、ぐいっと近くに寄ってきた。
顔が近くて、こっちまで顔が赤くなるのを感じる。
「ほんとにですか?」
「うん」
「……もっかい」
「……え?」
「もう一回好きって言ってください」
「好き」
「……」
「……」
「……ずるいです」
「ずるい?」
「……ず、ずるいですよ! そんなこと言われたら、嬉しいに決まってるじゃないですか!」
「あ、いや……そんなこと言われても」
「私も……好きです、先輩のこと、ずっと好きだったんです」
「……じゃあ、つまり」
「……」
十秒ほど、二人で見つめ合っていた。
俺は、そんなときに彼女が言ってくれたように「大丈夫だよ」と伝えた。
そしたら、彼女はまた照れたように微笑んだ。
「よろしく……お願いします」
すっと右手を前に出される。
「……私と、お付き合いしてください」
俺は、彼女の手をとった。
◇
「どきどきしてる?」
「どきどきしてます」
「じゃあ、これからもっとどきどきするようなことをしようか」
「こんなときにえっちなことを言い出しますか」
「あ……いや、そういうんじゃなくてね」
「……これ失言ですか」
「ふつうに」
「……まあ、先輩といるといつもどきどきしてるので、私はなんでもいいですよ」
「そういえば」
「そういえば?」
「……俺のどこが好きなの?」
「ぜんぶ」
「……いや、全部って」
「ぜんぶはぜんぶです。先輩こそ、私のどこが好きなんですか?」
「……」
「どこですか」
「顔」
「別れますよ?」
「……俺も、全部かなあ」
「嬉しいです」
「うん」
「やっと、先輩に好きって言ってもらえました」
「好きだよ」
「だ、だから……不意打ちはやめてください!」
「いいじゃん好き同士なんだし」
「調子乗らないでくださいこの唐変木!」
「キャラ変わってない?」
「そんなことないです」
「……なぎちゃん」
「……」
「照れてるのもかわいいな」
「先輩ちょっとうざいです」
「……それもかわいい」
「あまり言いすぎると安っぽくなりますよ」
「じゃあ言われるの嫌?」
「嫌じゃないです」
「ならいいじゃん」
「はあ……どきどきして死にそうになるのでやめていただきたいのです」
「顔真っ赤だもんな」
「うるさいです! 私だってあなたのこと大好きですよ!」
「めっちゃ嬉しい」
「……まったく、先輩は困った人ですね」
「そう言いつつまた顔が真っ赤になってる」
「もういいです……私も、好きです」
「なんか今すぐにでも昇天しそう」
「ばかですか」
「ばかでいいと思えてくるな」
「……ばーか」
◇
気付けばあたりは一本の電灯を残して真っ暗になっていた。
なんとなくずっとそういう会話をしていたくて、彼女も俺に付き合ってくれていた。
話している間、彼女は俺にくっついたままでいた。
それが無性に嬉しくて、俺もいつもより近付いた。
「そろそろ帰るか」
「……あ、はい」
「……明日も会わない?」
名残惜しさ。
「バイトありますよ」
「何時からだっけ」
「九時から十三時ですね」
「じゃあ、そのあとうち来る?」
「あー……えっと、私の家に来ませんか?」
「いいよ」
「ちょっと、見せたいものがあるんです」
「なに?」
「お楽しみです」
それから、二人で手を繋いで帰った。
◇
家に帰ると、姉と杏がリビングにいて、どうだっかのかを訊かれた。
情報が伝わるのが早い。
というかどうして杏がいるのか。
付き合うことになったと伝えると、両方におめでとう、と言われた。
二人と、あとは千咲を誘って、女だけで短い旅行に行くらしい。
「それじゃあわたし、お兄さんの妹ですね」
「おお」
「お兄ちゃん」
「嬉しいな」
「楓お姉ちゃん」
「私も! 妹が増えて嬉しいなー」
いろいろと話が膨らんでしまっているが、そこまで悪い気はしない。
杏が旅行雑誌を取り出した。
温泉旅館やレジャー施設、牧場なんてのが描いてあった。
「お兄さんは、夢の国とUSJどっちがいいと思いますか?」
「どっちも行ったことないしなあ」
「……修学旅行は?」
「サボった」
「悪ガキですね」
「まあそんなこともある」
◇
次の日のバイトはやけに時間が早く過ぎていった。
お姉様系先輩に、付き合うことになった、となぎさが言ったらしく、バイト後にいろいろ奢られた。
この二、三ヶ月働きすぎてお金が余っていたらしい。
どうしてそんなに働いてるんですか? と訊くと、貯金するのが好きだから、と言っていた。
俺も、同じようなもんだな、と思った。
そのままなぎさの家に行って、昼食を作ってもらった。
料理は、俺が作るよりも格段に美味しかった。
食べ終えたあと、部屋に来ませんか? と言われて、素直に了承した。
入るなり、一枚の写真を手渡される。
「見せたいものは、これです」
「……」
女の子と男の子が二人で写っている写真。
場所はなぎさと通った橋の上で、多分、これは昔の俺となぎさだ。
「いつから気付いてたの?」
「最初からですよ」
椅子に座るように促される。
向かいのベッドに彼女は腰かけて、何枚かの写真を出した。
「これ、この前のやつ現像してきました」
「……もらっていいの?」
「はい、二枚ずつお願いしたので」
ぱらぱらとめくってみる。
ツーショット、風景の写真、さっきの写真と同じ構図のもの。
「狙った?」
「狙いました」
なんかすごいな。
ていうか、それにしても。
「……最初からって、いつから?」
「中一の、私が中学校に入学してからすぐですね」
「え……マジ?」
「はい、ひと目でわかりましたよ」
「どうして話しかけてこなかったの」
「いや……先輩話しかけづらかったですし」
社交的ではなかったけど。
それに覚えていなかっただろうし。
「それに、私から見て先輩はキラキラしてたので、私が話しかけてもなあ……って思いまして」
「そう?」
「はい、千咲先輩もいましたから」
「あ、まあ……はい」
「まあ、あれです。保健室です」
「……保健室?」
「……話しかけようと思ったのは、保健室で先輩の話を聞いちゃったからです」
保健室、保健室……あ。
「あの話聞いてたの?」
「ごめんなさい」
「え、じゃあ、いつもの場所にいたのも知っててのことだったってことか」
「まあ、そうです。嘘をついても仕方ないですし、正直に言います」
「でも」と彼女は話を続ける。
「時間がかかっちゃいました。
いざ話しかけるとなると勇気が出なくて、三ヶ月くらい行けませんでした」
「そんときに、昔会ったことあるって言えばよかったのに」
「……だって、そう言ったら先輩逃げるでしょ?」
たしかに。
「それに、私は先輩と話をできるだけで嬉しかったんですよ」
あのとき養護教諭にあの場所を教えてもらったのも、それをなぎさが聞いていたのも全部偶然のことだ。
だから、俺はラッキーなのだと思う。
「俺も、そう思うよ。なぎさと話せて嬉しかった」
「はい、ありがとうございます」
ちょっと、と手招かれて、座っている椅子から彼女の隣に移動した。
「……あの、お願いがあります」
「なに?」
「まず手を繋ぎましょう」
言われて、彼女の手を取る。
すぐに指を絡められた。
「……次は、ハグしてみましょうか」
「うん」
左腕で抱きかかえる。
「なんかすごくどきどきします」
「……俺ら平然と抱き合って寝てなかったっけ」
「それはそれです」
そうなのか?
「まあ、先輩が私の太ももを触ってこなかったのもわかってますよ」
「へー」
「で、次は……なにしますか?」
「なにって」
手をつなぐ。
ハグ。
次。
「……え、いや」
「女の子に言わせないで下さいよ」
目の前に、照れたように顔を赤くした彼女の顔がある。
彼女はえへへ、とくすぐったそうに笑って、目を閉じた。
俺は迷わずに、すぐに唇を重ねた。
「ちゅー、しちゃいましたね」
「うん」
なぎさは俺から手を離して、その場に立ち上がる。
「ちゅーしやすい身長差は十三センチってなにかで見ました」
「……俺らそんくらい?」
「たぶん、そのくらいです」
身長差、姉に前に言ったことを少し思い出した。
彼女を見上げると、腰を曲げて俺の方へ寄ってきて、ふふっと笑った。
「私、こう見えて結構嫉妬深いタイプなんです」
俺が言葉を返す前に、口を塞がれた。
そのまま、がばっと俺の方に飛び込んできて、ベッドに押し倒される。
「いや、あれについてはな」
「なんのことですか?」
「いや……なんでもないです」
気圧された。
なぎさは、ぎゅー、とかなんとか言って抱きしめてきて、
彼女からふわりと香る甘い匂いに頭がぼーっとする。
「はるくん、好きですよ」
唇がもう一度迫る。
目を閉じて彼女に身体を任せようとしたときに、ガラッと扉の開く音がした。
「お姉ちゃん、今度旅行に行くんだけど……」
「……」
「……」
「……あ」
「……これは、その」
「ごめんなさい! わたし部屋に戻ってイヤホンしてるから!」
バタバタと廊下を駆ける音がした。
なぎさはすぐに俺から離れて、やっちまった、みたいな表情で、自分の髪を撫でた。
「下に降りますか」
「……うん、そうしよう」
◇
次の日は全員が家に集まった。
千咲とは少し気まずかったけれど、目を合わすなり、おめでとうございます、と言われた。
俺となぎさのことは言わずともみんな知っていて(吉野さんとコウタ以外には自分から言ったのだが)めっちゃテキトーな感じで祝福された。
コウタが、俺らも付き合うことになったから、と会話の流れの中で言った。
吉野さんは少し恥ずかしそうにしていた。
そんな顔をしているのを見るのは初めてだったかもしれない。
ただ、そんなことがあっても、俺らが集まってすることはあまり変わらなかった。
コウタとゲームをして、杏と吉野さんが入ってきて。
夜には当然のように泊まって行って、疲れて寝るまでリビングに集まって遊んでいた。
コウタと二人きりになったときに、「おめでとう」と言うと、「ありがとな」と返ってきた。
みんなの前で報告したときには見せていなかった、気持ち悪いほど頬の緩んだニヤケ顔を拝んだ。
おまえもおめでとう、と言われた。
素直に嬉しく感じた。
◇
次の土日にバスケを観に行こうぜ、とコウタに言われて、ユウヤの試合を観戦しに市立体育館に行った。
ユウヤのチームはそこそこに強くて、なかでもユウヤが飛び抜けて上手だった。
他県の強いチームとの対戦だったらしく、なかなかのシーソーゲームだった。
会場に行くまでの時間も、バスケを観るってもなあ、と思っていた俺でも、
試合終盤になる頃には、白熱する展開に興奮して、最後勝利した時には立ち上がってユウヤを讃えていた。
帰り道で、コウタに「どうだ、バスケがしたくなったか?」と言われた。
それに頷きを返して、「コウタはどうして続けなかったの?」と前にした質問をもう一度投げ返してみた。
コウタからの返答は、どう考えてもわけがわからなく面白いものだった。
◇
それから夏休みが終わるまで、変わりのない日常が流れ続けた。
うちで遊んだり、バイトをしたり、なぎさの家で遊んだり、街に出かけたり。
ゆかりさんが家に来て、姉と千咲と杏を連れて旅行に行った。
関西の方へ行くらしい。結局USJに行ったんだろうか。
ゆかりさんはそれを独身女子の会と言っていた。
別に他の人も結婚はしていないと思うけど、あまり考えないことにする。
なぎさと俺も、バイト代を使ってどこかに行こうか、という話になった。
夏休みが終わっても、彼女はバイトを続けるらしい。
せっかく慣れたし、バイト先の人たちと仲良くなったし、俺の近くにいたいから、と言っていた。
◇
新学期になっても、あまり俺の周りで変わったことはなかった。
朝は夏休みが終わる頃にはすっかりツンデレに逆戻りしてしまった姉(それはそれでかわいい)に叩き起こされて、
家を出たら千咲が家の前で待っていて。
なぎさと付き合うことになったしそれはどうなんだろう? と思ったけれど、
なぎさはべつに構わないらしく、彼女も加わって三人で登校することになった。
あとで理由を聞いたら、先輩はそんな度胸ないですし、と言っていた。
変わったことと言えば、同クラスの四人で行動することになったことと、
校内でもなぎさと会うようになったことだった。
コウタと吉野さんはドライそうに見えてなかなかいちゃついていて、俺と千咲は、うわー、という視線をいつも向けるのがお決まりになっていた。
昼休みは体育館でコウタとバスケをほぼ毎日するようになった。
普通にボロクソにやられつつも、毎日体育館に通った。
コウタも俺も、いろいろと忘れていたものを思い出せたのだろう。
放課後になると、校門近くで待ち合わせて、なぎさと二人で帰るようになった。
バイトがある日も、そうでない日も、用事がなければそうすることに決めた。
一緒にいる時間が多くなったとはいえ、特に夏休み前の関係と変わることはなかった。
みんなの前でなぎちゃんと呼んだらパンチが飛んできた。
二人のときなら良いと言っていたけれど、未だにそう呼んだことはない。
俺のことをはるくんって呼ばないの? と訊ねると、呼びません! と言われた。
昔はそう呼び合っていたと教えてもらった。
バイト帰りには、コーヒーやらパンやらを買って、暗さの中に明かりの灯る街の景色を見ながら話をすることは以前と変わりなかった。
先輩、といつもの場所で隣に座る彼女が声をかけてきた。
「次の休み、どこかに行きましょうか」
「どこに行きたい?」
「んー」
「んー?」
彼女は首をかしげながら、何かを思いついたように手を叩いた。
「先輩の隣なら、私はどこでもいいですよ」
答えになってないじゃん、というつっこみは心の中に留めて、彼女に向けてゆっくりと頷きを返した。
無邪気に笑う彼女が愛しく思えて、すぐ近くにある小さい手を握った。
「なぎさ」
「……はい?」
「ずっと一緒にいよう」
彼女は俺からの言葉に、ほのかに顔を赤く染めて、嬉しそうに頷いた。
元スレ
後輩「また死にたくなりましたか?」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1491209600/
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- 面白かった
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- 2017年08月24日 14:48
- つまんなくて読むのやめちゃった。
どういう話だったの。
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- 2017年08月24日 15:50
- 主人公が異世界に転生して無双する話だよ
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- 2017年08月25日 02:57
- この人の作品ホント好き
地の文が読んでてすごく心地いいし、変に個性付けされてないのにキャラが魅力的
恐らく前作(冬のやつ)とテーマは似てる
今までの中では重めの話ではあるけど、のどかな日常はいつも通り引き込まれる
次回作も期待しています
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- 2017年08月25日 10:04
- いやトリップくらい見ろよ
この人のはこの人ので好きだけどさ
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- 2017年08月25日 21:12
- 屋上の人やな
なぎさちゃんほんとすこ
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- 2017年08月26日 11:43
- あぁやっぱりあの人のやつだったのね
登場人物のパターンと話の雰囲気でなんとなくわかってたけど
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- 2017年08月26日 13:18
- 別人だって本スレで否定してるけどな
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- 2017年08月26日 14:16
- はこにわ の過去作一覧にないから別人か
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- 2017年08月26日 18:43
- 別人なのか
それにしては良く似てるなー、※6が間違えるのも無理はないなー
(語っちゃってむっちゃ恥ずかしい)
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- 2017年08月26日 19:31
- 別人なんか
屋上に昇ってが大好きなんやろなぁ
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- 2017年08月27日 00:07
- なぎさちゃんかわいすぎやろ
自分の読んできたSS史上トップでかわいい
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- 2017年08月27日 02:58
- なんか最初のところで姉とのやりとりが気持ち悪くて撤退しました
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- 2017年08月28日 02:25
- 屋上さんのは良い意味で心情描写がくどいよね
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- 2017年08月29日 16:54
- マジで?
屋上さんのと別人なのか…結構冒頭から確信していたのだけれど……笑
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- 2017年09月05日 12:43
- 良作だったと思います。素晴らしい作品でしたが、千咲が報われなさ過ぎる…個人的には千咲と結ばれて欲しかったです。オチも良く、(自分の中では)大きな文法のミスや明らかに分かる打ち間違い以外の誤字もなかったですし、読みやすくて、久々に完成度の高いSSを読むことが出来たと思います。余談ですが、千咲はニセ〇イの千棘と小咲から取ったのでしょうか?
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- 2017年09月05日 16:09
- 千咲ルート書くとなぎさちゃんが裏で泣くことになっちゃうなあ
それにしても、最後の一ヶ月だけ筆早すぎるやろ500レスくらいしてるぞ
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- 2017年09月20日 12:26
- タイトルで鬱系かな?っと思ってドキドキしながら見てたら恋愛ものだった
最高でした